実はいま私は毎日ブログを書くことを自分に課している。内容はどんなにくだらないものでも構わない。いまどきAIのほうがよほど上手な文章を書いてくれるので、巧拙を競っても仕方ない。自分が書いていて楽しいものを書こうと思っている。昨日まではなんとかネタがあったので、そんなに苦労しなかったのだが、今日にいたってとうとうネタが尽きてしまった。そのためにこんなつまらない文章を書いている次第だ。
私はいま仕事をしていないので、一日中ネットをしている。先月までは YouTube を見まくっていたのだが、最近はそれも飽きてきて、そこまで見なくなった。時事的なニュースは追いかけ始めるとキリがない。私は、英語や中国語で主にさまざまな政治ニュースを見ていたのだが、英語圏はトランプの話ばかりだし、中国語圏は習近平の進退の話ばかり(中国国外の中国語圏ではいま習近平の権力が揺らいでいつ退陣表明するかという話でもちきりである)。どちらもいろいろ根深い話で、真面目に考える憂鬱になる。この10日間くらいは、日本の参議院選挙がらみの話を追いかけていた。極右勢力の台頭自体は懸念材料ではあるが、日本の政治に大きな地殻変動が起きつつあること自体は大変興味深い。短期的にはあまりいい方向には向かわない気がするが。日本の話はそれなりに深刻ではあるものの、世界のさまざまなより憂鬱な話(例えば、ガザだったり、ウクライナだったり、スーダンだったり)よりはまだずっとマシだ。だから最近は、ちょっと現実逃避気味に日本のニュースを追いかけている。
私は子供の頃、どういうわけかコンピューターゲームをあまりやらなかった。親があまりゲームに前向きではなかったというのはある。特に明確に禁止されていたわけではなかった気がするが。ただ自分でもそこまでゲームにのめりこめなかったというのはあったと思う。ゲームが下手というのもあったが。下手だから好きになれなかったのか、好きではなかったから下手だったのかよくわからない。
そんな私もマインクラフト(略称:マイクラ)だけではときどきプレイすることがある。コロナの頃、外出ができなかったので、散歩代わりにマイクラ(Java版)で遊んでいた。途中で飽きてしまったが、またやり始めた。今回は Bedrock 版という Windows PC 上のネイティブコードで走るバージョンで遊んでいる。GPUがない場合は事実上これを使うしかない。このマイクラというゲームは、ブロック状の物体をどんどん掘っていき、そこで産出するアイテムを取得していろんなことをやるというものなのだが、以前のバージョンとアイテムの出方が変わってしまって、私の主観的にはあまり面白くなくなってしまった(鉄鉱石が出にくくなった)。それでやるのをやめてしまった。
私は日々をある意味で無為にすごしている。しかし無為とはなんだろうか?普通に考えると「何の役にも立たないことをやる」という意味であろう。何の役にも立たないことをやることは、いけないことなのだろうか?確かに生き残るためには、安全に生活できる住居やら、食料やら、最低限の資源を手に入れる必要があり、それが集まっていない段階で無為に過ごすことは悪かもしれない。しかし、私の場合は当分の生活の糧はすでに確保されている。そういう場合でも無為に過ごすことは悪なのだろうか?
私は考えてみると子供のころから「何か役に立つことをやらなければならない」という強迫観念に駆り立てられてきたのかもしれない。それは確かに私を優等生にし、一流大学に送り込んでくれたけれども、それで私は本当に幸せになったのだろうか?ひょっとしたら一度役に立つだの役に立たないだのということを忘れて、無為に時間を過ごしてみても良いのかもしれない。自分の好きなことをやってもいいし、やらなくてもよい。何かしてもよいし、やらなくてもよい。どちらも同じくらい悪くないのかもしれない。
「何か役に立つことをする」というのは一見素晴らしい態度に見えるけれども、それは「将来のために現在の満足を我慢する」ということでもある。それは確かにある程度は必要なことであろう。だが、それが行きすぎれば、永遠にやってこない「将来」のために延々と現在の満足を我慢し続けるということにもなりかねない。実際のところ実在するのは「現在」だけである。本当に将来への貯えが十分あるのならば、現在の満足をもっと大切にしても良いのではないだろうか。
そんなことを考えながら、日々を無為に過ごしている。