以下の内容はhttps://elm200.hatenablog.com/entry/2025/07/26/172107より取得しました。


排外主義と私

私は1999年から4年間、カナダに住んでいた。そのほとんどの期間、私はトロントという東部の英語圏の大都市に住んでいた(カナダはケベック州等、フランス語を話しているエリアもあるので)。そこで英語を学び、ソフトウェアエンジニアとして働いていた。カナダの文化は日本とは何もかもが違っていて、戸惑うことが多かった。しかし、トロントはいろんな国から来た人たちがいて大変楽しかった。世界でももっとも多文化な都市の一つである。

私は英語学校に通っていたので、そこには世界各地から英語を学び来ている人たちが多かった。英語学校の同級生たちと友人になった。欧州や南米から来た人たちともある程度、付き合ったけれども、やはり文化的に近いアジア人の学生と仲良くなりやすかった。私は、特に韓国人たちと仲良くなった。正直言うと、私は大学時代に一度韓国に行ったことがあったけれども、その時の印象があまりよくなかったので、少し警戒していたのだが、実際に話してみるととても気持ち良い連中で、すぐに打ち解けて、よく一緒に韓国レストランに行ったりした。トロントダウンタウン(中心部)には、コリアタウンがあって、そこには手軽な価格で本格的な韓国料理が食べられたのだ。

私は、カナダ人の経営する小さなソフトウェア企業で受託開発の仕事していた。当時の日本では、同僚たちと夕方飲みに行って交友を深めるのは当たり前だったけれども、カナダではそういう雰囲気は全くなかった。夕食は家族とするのが当たり前だった。その上、その会社は創業者の社長・副社長以外はみんないろんな国出身の移民たちだった。ルームメイトでカナダ人がいることもあったけれども、やはり文化的に距離が遠すぎて、なかなか仲良くはなれない。

そういうわけで私は実はカナダ生まれのカナダ人と友人になる機会がほとんどなかった。4年間、カナダに住んだけれども、カナダ人の友人はほとんどできなかった。

これ自体はそれほど珍しいことではない。外国に住んだことがない人には想像つかないかもしれないが、外国に住んでも、その土地で生まれ育った人たちとはなかなか友人になれないものだ。話す言葉が違うというのが理由の一つ。しかし、もっと大きな理由はやはり立場が違うからだ。片や生まれも育ちもその土地という自国人、片やよそ者でありビザ次第でいつ退去しなければならないかわからない外国人。この差は想像以上に大きいのだ。

カナダの場合は、それに加えてさらに難しい問題があった。人々の交際スタイルが欧米式であること、話す言葉が英語であることだ。私は、日本生まれ日本育ちのシャイな人間だ。日本文化的な繊細さを身に着けてしまっている。そうしたくなくてもつい人の顔色を窺い、空気を読んでしまう。しかし、カナダ人は人の目を見てはっきりと主張する(もちろん彼らなりの婉曲表現はいろいろあったりするのだが、とにかく日本とはノリが違う)。政治のような、日本では忌避されがちな話題についても、気軽に話す。みなそれぞれはっきり自分の意見を持っている。私はそういうノリが素晴らしいなと思いつつ、同時に長く日本で身に着けた習慣ゆえに完全には乗れなかった(私がカナダに渡ったのは29歳だった)。

カナダの英語圏では英語は日常の言語である。同時に世界的な公用語でもある。「英語は話せません」という言い訳が通用しなかった。その圧倒的プレッシャーが大きかった。トロント生まれのカナダ人であれば当然英語は完璧に話す。完璧な英語を話すカナダ人と、たどたどしい英語しか話せない自分。この差にいつも悩まされていた。

私はこの問題といまも直面し続けている。チェンマイには欧米人の長期滞在者が多くいる。英語のネイティブスピーカーであったり、そうでなくても堪能な人が多い。一面では私は彼らといろんなテーマで話がしたい。彼らには日本人にはない視点がある。しかし一方で、上に述べた理由で、生理的にどこか苦手意識がある。英語自体は、カナダにいたころよりさらに上手になっているので、いまや言語的な障壁はそこまで大きくないのだが、文化的な壁を乗り越えるのは難しい。

日本人と言ってもいろんな人がいる。私は言語に頼りがちな人間なので、このように母語以外の言語でのコミュニケーションに問題を抱えやすい。一方で、言語にそれほど頼っていない人もいる。たとえばスポーツとか身体で自分を表現するような人たち。こういう人たちは私ほど苦労はしていないのかもしれない。あるいは、そもそも難しいことを考えず、当たって砕けろ的な明るく強靭な性格の持ち主もいる。こういう人たちはさほど外国語できなくても、問題なくどんどん交際し友人を増やしていく。

いま日本では排外主義的な動きが広がりを見せている。排外主義というところまでいかなくても、自分とは言語や文化の異なる人たちを警戒する日本人は一定数いると思う。私は、彼らの気持ちも少し理解できる気はするのだ。日本文化は多くのお約束によってなりたつ繊細なものだ。同質性の高い日本人たちが長年かけて積み上げてきたもので、そういう文脈を共有しない外国人には理解されにくい。また、日本語は言語系統的に孤立していることもあり、外国語、とくに最重要の英語を大変苦手にしている人が多い。そういうわけで、平均的な日本人は外国人と付き合うのを苦手にしているのはないだろうか。

これはある程度仕方ないことなのかもしれない。基本的には慣れの問題だ。一定の年齢まで日本人だけと付き合ってきた人たちが、さあいまから外国人と付き合ってください、と言っても難しいと思う。ただ、今後は変わっていく可能性は十分ある。YouTubeがある今は、英語圏の動画にはいくらでもアクセスできる。英語をAIに教えてもらうこともできる。若いうちから外国人と交際していけば、苦手に思う気持ちもだいぶ少なくなるだろう。そういう経験をこれから何世代か積み重ねていけば、日本人ももう少し自然体で外国人と付き合って行けるだろう。

さて私個人はどうしたらいいのか。理想をいえば、難しい議論を英語で堂々といろんな国の人たちとやってみたいけれども、それはちょっと難しいのかもしれない。だから、実際には世間話をときどきするくらいでもいいかなと思っている。何か言語を使わないアクティビティを一緒にやってみるのもいいかもしれない。おそらく、そんなにきれいにスパッとは解決しないので、ぼちぼちやっていこうと思っている。

P.S.

日本人が外国人を受け入れる際に、「ここは日本なんだから日本語を話せ、日本風に振舞え」と強制するのも一つの考え方ではある。日本に定住する外国人たちもたいていの場合はいろいろ努力して、日本社会に合わせようとしてくれることは多い。ただ、理想をいえば、日本人側もそもそも異文化の人と付き合うというのはどういうものなのか、そのノリを理解して、少し歩み寄れれば、実りが大きくなると思う。食文化が典型だが、異文化を理解するというのはやってみるとそれ自体非常に面白いことだから。

ただ、保守的な人たちの一部にはこの楽しさを感じる感性がもともと欠落している人たちもいるのかもしれないな、と思うときもある。そういう人たちにとっては自分とは違う文化を持つ外国人は厄介者でしかないのかもしれない。ここらへんをどう考えるかはなかなか難しい問題である。

P.S. 2

自分の気持ちや考えを英語圏に発信するためにSubstackで英語ブログをやっている。最近はここにポストしたエントリーを英訳して上げていることが多い(ChatGPTに翻訳してもらっている)。ChatGPTとの議論の結果を英文にまとめてもらったエントリーもある(vibe writing)。ご興味があればご一読ください。




以上の内容はhttps://elm200.hatenablog.com/entry/2025/07/26/172107より取得しました。
このページはhttp://font.textar.tv/のウェブフォントを使用してます

不具合報告/要望等はこちらへお願いします。
モバイルやる夫Viewer Ver0.14