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さよなら優等生

私は物心がついたころにはこの世界に違和感を覚えていた。周りの人たちと自分では何か考え方が違うのだ。小学校で私はずば抜けて学業成績が良かった。勉強はよくしたがそれは単に興味があったから教科書を読んでいただけのことで、それほど苦痛を感じたことがなかった。どうやら周りの人たちは勉強に大変苦労していて、しかもそれが好きではないようだった。こんな風に物事に対する感じ方がまるで異なっていたので、同級生たちとはまるで話が合わなかった。私にとって「率直に自分の気持ちを話す」=「周囲から理解されない・誤解される」だった。

周囲とはいろいろ摩擦を起こしいろいろ嫌な思いをした結果、私は自分を知的に防衛するようになった。「人より賢くなり、周囲をコントロールすることで自分の安全を守るのだ」と自分に言い聞かせるようになった。

しかし、最近になってようやく理解できるようになった。自分がそこまで頭が良いというわけではないということを。確かに大学に入るところまでは、学校の成績はよかったけれども、上には上がいるのだ。文章にしても私は本当はもっと切れ味の鋭い、賢げな文章を書きたいのだが、それはどうやら書けそうもないということを学んだ。

私には私の思考速度があり、物事に関する解像度がある。それはそれでいいじゃないかと。それを認めたとき、私はふと気が楽になった。いままではたぶん自分の憧れる存在のようになりたいと願っていた。しかし、それは結局自分ではないのだ。他者と自分を比較していたのだ。自分と違う人間と自分を比較するのは無意味だ。なぜなら、結局、自分はその人のようにはなれないからだ。

他者の良い部分を見て、自分もそのようであったらいいなと願う。しかし、実は自分にとっては当たり前にできて、他者には簡単にはできないことがあるかもしれない。人を羨ましがって下手に真似してしまうと、自分の良い部分を殺してしまう可能性がある。私は、無理に苦手なことをやろうとせずに、自分が本当に簡単にできることに集中すべきではないのか。

私はたとえば、書評を書くのが下手だ。本を読んでいろんなことを感じるのだが、それを小ぎれいにまとめてそれっぽい文章にすることが下手だ。子供のころも読書感想文が書けなかった。その一方で、こういう風に自分の心の動きを観察して書く文章ならいくらでも書ける。正直、そんなものに需要があるのかはよくわからない。ただ私にとっては何の努力も要さない。だったらそういう文章を書いたらいいんじゃないのか(あまり信じられないが、こういう文章を書くのが苦手な人もいるかもしれない・・・まさかとは思うけれども)。

いまはAIがきれいに整った文章を書いてくれる時代になった。それに比べると私の文章はいかにも拙い。しかし、その凸凹ぶりこそが味となる時代なのかもしれない。今後もカッコをつけずに、自分が物事をどのように捉えているのか、何を理解して何を理解していないのか率直に書き続けよう。正直言ってたいした文章ではない。一般的には面白くも価値もないのかもしれない。それでも、ひょっとしたら、誰かは「面白い」と思ってくれるのかもしれない。私としては、定期的に自分の頭に常に渦巻く様々な思考を外に取り出さないと頭がおかしくなりそうなので、その一部をここに書き残していく。基本的には大変利己的な行為だが、万が一誰かが面白いと思ってくれるなら望外の喜びである。




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