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完全な時間的自由

何度か述べた通り、私は数か月前に業務委託でやっていたソフトウェア開発の仕事をやめてしまった。十分な貯えがあり、当面の生活には困らない。だから当面、ソフトウェア開発の仕事には戻らないつもりでいる(未来のことはわからないので、何らかの事情で戻る可能性は常にあるけれども)。

辞めてしばらくの間は、張り切っていろんなことをやっていた。事務的なことで処理しなければいけない案件もいろいろあったし、「仕事をやめたらやりたい」と思っていたことをいろいろこなすのも楽しかった。「こんなことではなくて他のことをやりたい」と仕事をやっているときはずっと思っていたので、そういう時間的制約がすっかりなくなったことは新鮮な喜びだった。

しかし、3か月ほど経った今、だいぶんだれてきた。確かに時間はたくさんある。ただ、時間がたくさんあると、ついダラダラと無駄につかってしまうものなのだな、よく理解できた。

私はいままでの人生で何度もブランクがあり、全く働いていなかった時期が何カ月もあった。しかし、いま思うとそういうときでも、いつかまた働くつもりがあり、そのための準備期間だ、という意識があった。だからソフトウェア技術について勉強したりしていた。ところが、今回は、またソフトウエアエンジニアとして働くかどうか本格的に不透明だ。さすがに何をやってもいい、あるいはやらなくてもいい、とここまで自由な時間を持てたのは人生で初めてだ。

私はいま55歳だから、もう若いとは言えない。実際、50年前は、人々はこれくらいの年齢で引退するのが普通だった。そう考えると、私も単に引退したのだ、と考えることもできる。特に珍しい要素は何もない。私はあまり難しく考えてはいない。とりあえず休んでいるという感覚はあるが、これが引退といえるのかどうか、自分でも良くわからない。

ただ、引退後の高齢者の気持ちはなんとなくわかるようになった気はする。完全な時間的自由。何をしたらいいのかわからないという戸惑い。もちろん、高齢者でも忙しく働いている人たちも多い。こういう人たちの時間感覚は若い人たちとあまり変わらないだろう。一方で、仕事もなく、ボランティア活動等の団体活動もせず、配偶者もなく、毎日完全な時間的自由の中で生きている高齢者もいるだろう。みんなそれぞれ個性的に時間を使っているのだろうと思う。趣味に費やす人。家事に明け暮れる人。スポーツする人。あるいは完全に受動的に一日中、テレビを見ている人もいるかもしれない。いろんな基準でアレコレ言うことはできるかもしれないが、突き詰めて考えれば特に正解はないと思う。みんなそれぞれ好きなように時間を使えばいいだけ。それだけである。

こういう完全な時間的自由というのは、生活のために忙しく働かざるを得ない人たちにとっては憧憬の対象かもしれないが、実際に持ってみるとなかなか重く、使いこなすのが難しいということを今回知った。いまはこの手の時間的自由は、ごく一部のFIRE達成者と、経済的余裕のある高齢者たちだけに与えられている。しかし、いまAIが急速に発展しつつあり、それほど遠くない将来に、AIが全面的に人間の労働を代替し、人間が働く必要がなくなる可能性が現実的になってきた。社会全体で「何をしてもしなくてもいい時間的自由」をどう使うべきか、「働いていない」という状態を恥だとは考えないようにするためにはどうしたらいいか、考えるべきときなのかもしれない。

とりあえず個人的には「人生やることリスト」でも作って、それらを実行していこうと思っている。いくつか考えていることはあるが、それはまた別の機会にお話ししよう。




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