保守主義とは何なのだろうか。それは極右とは何が違うのだろうか。
どうやら保守主義というのは「地域ごとの伝統・秩序を尊重しながら、漸進的な改革を進める立場」というものらしい。その一方で極右というのは「過激で感情的であり、敵を作り分断を煽る排外主義的ナショナリズムや権威主義的支配の強化を目指す立場」というものらしい。そもそもナショナリズムというもの自体が一つのフィクションである。もともとあった国内の地域的多様性をローラーで均すように均質化して「国の文化」「国民」という空想上の存在を人工的に作り出したものである。
日本では保守を標榜する人が実際には排外主義的な極右であることも多いように感じる。まあ、私はどちらにしろこの「業界」に対する解像度が低いので、あるいは間違っているのかもしれない。私は子供の頃から保守主義に惹かれたことは一度もなかったし、いまも興味がないままである。
どうしてそうなのか考えてみる。私は日本と不幸な出会い方をした。私は茨城県の片田舎で生まれて育ったのだが、私は少しもその土地を愛していなかった。私の家族は移住者で、都会生まれの母は引っ越してきた当時、田舎の人間関係の閉鎖性にうんざりしていたようだ。私の家族の、地域から一歩退いた関係性は私の人格形成にも大きな影響を与えた。
私は高校時代まで過ごした土地に全く愛着を持てぬまま、逃げるように東京の大学へ進み、東京へ引っ越してしまった。いまも墓参のためにときおり茨城に戻るけれども、あくまでも「幼少期に私が物理的に住んでいた場所」にすぎず、「ふるさと」というような甘い郷愁は全く浮かんでこない。
しかし、当然私のような生き方とは正反対の生き方をしてきた人たちも大勢いるだろう。生まれた地元を愛し愛された人たち。そこに愛着を感じ、大人になってからも住み続け、結婚し子供を育て、老い死んでいく人たち。むしろこういう人たちの方が多くの地域で主流派であったはずだ。
実際、私が生まれ育った茨城県は保守王国と呼ばれていた。自民党の地盤。確かに良くも悪くも自民党の議員たちは地元に溶け込んで泥臭く活動しているように見えた。いまだに私の自民党へのイメージがそのときのままである。
いまグローバル化によってこうした各地域の昔からある土着的な共同体が脅かされつつあるのだろう。彼らは、そうした変化に対して拒絶反応を示す。その一部は思想的に先鋭化して、極右思想に共鳴していく。「地域ごとの昔からの伝統を重んじる」保守主義と「新しく作られた空想上の国の伝統や文化」を信奉する極右は実は対立する部分もあるにもかかわらずである。
これは田舎の話であり、都会ではまた違うのかもしれない。それでも、外国人排外主義的な動きを見ていると、都会でもやはり「自分たちの身の周りの環境」が脅かされていると感じて、なんとかそれを維持したいという人が増えているのかもしれない。
私は、こうやって子供のころ生まれ育った環境に愛着を持てず、根無し草だったために、逆にどんどん普遍的な方向にあこがれた。市場経済。ノマド。世界市民(コスモポリタン)。リベラルは異質なものをどんどん包摂していく考え方なので、政治的指向は当然のようにリベラルになった。
おそらく各人の政治的指向は、理屈で決めるというより、こうした身体的感覚に基づいているのだ。私が身体的に保守主義(極右は当然のこと)を受け付けないように、リベラリズムが感覚的に合わないと思っている人たちもいるのだろう。だから自分と真逆の政治的指向を持つ人のことを理解するのは難しい。
農業が基本で、定住者が優遇され、各地域の伝統に根ざす保守主義がもともと強かった日本社会は、経済的衰退とグローバル化の圧力の中で、右傾化傾向を強めているようだ。それは私個人にとってはあまり好ましい動きではない。ただ、私以外の大多数の日本人はそれで幸せになれるのだろうか?上で述べたとおり、私は保守的な人たちの気持ちがよくわからないので、本当のところ確信が持てない。