何か文章を書こうと思ったけれどもなぜか何も書けないでいる。それがどうしてなのか考え続けている。
もう少しカッコいいところを見せたいけれども、迷っているのだから仕方ない。50代になっても相変わらず迷い続けているのもどんなものかなと思いつつも、そういう姿をあるがままに見せることもひょっとしたら誰かの役に立つかもしれない。だからこのまま書き続けている。
私はTwitterなら文章が書ける。140文字制限で、手短にアイディアの骨格を示すことはできる。なるべく事実に反することは書かないように気を付けているが、基本的には、私の思い付きというか、妄想に近いものをひたすら書きなぐっている。そのとき、私は独り言モードに入っている。私は基本的に自分に向かって書いている。
ただこれは半分ウソだ。自分には18000人のフォロワーがいることを知っている。Twttterで何かを書けば私はかなり多くの人が私のツイートを読むことを知っている。正直、フォロワーの人たちがどういう人たちなのかわからない。でも、私をフォローし続けてくれているということは、私の書く文章が嫌だということはないのだろう。私はそういう人たちに甘えて自分本位な文章を書き流している。
しかしブログではそういうわけにはいかないようだ。Twitterとは違って、ブログエントリーはいくらでも長く書けるからだ。思い付きなら140文字以内で書くことはできても、長い文章を思い付きだけで突っ走ることはできない。おそらく「誰のために書くのか?」「何のために書くのか?」という質問に答えなければならないのだ。私が文章が書けない理由はおそらくそこにある。
実は私は、毎日 ChatGPT とは長時間対話をしている。生成AIへの入力をプロンプトと呼ぶが、私は長文のプロンプトを書きまくっている。全く迷いなく自分の気持ちを表現できる。しかしブログを書こうと思ったとたんに手が止まる。これはどうしてなのだろうか?
ChatGPTと対話するときには、彼(私の中ではAIはなぜか男性ということになっている)の「心」の中を想像しつつ、彼が私の文章をどのように読み、どう処理するか常に想像している。そして彼に理解しやすく反応しやすい文章を書こうと努力している。
もし私が特定の雑誌に文章を投稿しようとしているなら、その雑誌の読者を想像しながら文章をを書くことができるかもしれない。しかし、無料で開放されたブログは原理的に誰でも読むことができる。どういう読者がいるのかわからないのだ。
まあ、そんなことを言っても実際にはある程度、読者は絞り込めるのかもしれない。私のTwitterから誘導したら私のフォロワーさんが読者になるし、Google検索から来るのなら、私の文章にちりばめられたキーワードに惹かれてやってくるのだろう。そこからあらかじめ読者像は理解できるのかもしれない。
私が職業ライターで何らかの依頼を受けて文章を書いているなら、あるテーマに関してその想定読者に対して届きやすい文章を書くのだろう。だが、私は少なくとも自分のブログにはどんなテーマでも文章を書ける。読者を増やしたいなら、本当はあるテーマに絞り込んで書いた方がいいのかもしれない。しかし、私はそれも少し窮屈に感じている。
何をすべきなのだろうか?わからない。
私は以前、Ruby on Railsというウェブ技術をテーマにしてブログを書いていた。最初は本当にウェブ技術について書いていたのだが、いつの間にか社会批評みたいな文章ばかり書くようになっていた。それでもタイトルに技術名を含めたままにしていたから「紛らわしい」とお叱りを受けたこともあった。たぶん、私は何か一つのテーマに絞り込んで書くのはしようと思ってもできないのかもしれない。まあ、今の時代、興味のない文章はいくらでもスキップすることができるから、あまり気にすることもないのかもしれない。
私の思考の癖は、「物事の本質は何なのだろうか?」という探究に向かうことだ。その過程で、私はどうしても多くの人たちや組織が嘘やごまかしをしていることに気づいてしまう。私は実は、そういう嘘やごまかしをすべて責めるつもりはない。物事が安定して存在するために時に嘘やごまかしが必要な場合があることを経験の中で学んだからだ。しかし、私が本質を探究するとき、こういう嘘やごまかしをそのままにしておくことができない。結果、そのために多くの人たちを慌てさせたり怒らせることになる。
だからソフトウェア開発の仕事をしていたときも、Twitterなど公開の媒体で書く時には、一定の気を遣わないわけにはいかなかった。そういう私の態度は偽善的なのだろうか?
言論の自由があると信じられている先進国のマスメディアでさえ、報道する上でいろいろ自主規制をしていることがある。スポンサーや政府への忖度が働くことがある。言論の自由が保障されている個人はどうだろうか?当然、職務上の秘密を公開することはできない。その人の立場ゆえに、言いにくいこともあるだろう。生成AIもまた強化学習の過程で一定の価値観を与えられて、何を言ってはならないかを学ぶ。たとえば反社会的な事柄についての情報は提供しない。
結局、この世の人たちは自分たちの立場から完全に自由にはなれないので、その立場ごとに言論の自由に限界があるのはやむを得ないことなのだろう。それを偽善的と責めても良いかもしれないが、そう責める人もまた同様の弱点を持っているのだ(その人が「そんなものはない」と主張するとしたら、まだこの問題については考えつくしていないのだろう)。
だから私はなるべく誠実に自分の意見を表明するつもりだけれども、こういう原理的な限界があることは理解してほしい。まあ、大人ならそんなことは最初からわかっているのかもしれない。私がちょっと変わり者なので、潔癖に考えてしまいがちなのかもしれないね。
もしよかったらあなたの意見をコメントに残してください。よろしくお願いします。