
ディオゲネスは、既存の国家(ポリス)を超越した世界政府を構想した。その世界政府の国民が世界市民である。この思想はストア派から受け継がれ、カントは歴史の終極としての世界政府を論じた。ヘーゲルから出たマルクスは国家は階級対立から生まれたとし、それを総括したエンゲルスは国家死滅を説き、イルミナティ創設者のアダム・ヴァイスハウプトは世界市民的共和制を理想とした。
※画像はイルミナティのシンボルの『梟』。
しかし『全てである、というのは全てでない』ということだ。全ての国の否定が世界政府である。世界政府であるということは、全ての国から排除され、どの国でもないが、逆にどの国も世界政府の部分地区である。
例えば、日本であることは諸外国の領土ではないと諸外国を排除することであり、日本であることの否定は排除された諸外国であるということだが、その時点で排除、対立という関係性ができている。しかし、その関係性は一つの世界の内部の国家地域間の関係性であり、世界市民の政府である世界政府ないし地球政府を仮定すれば、諸々の国家は地域として包括、遍充されているものだ。
国家が専ら自らの専制のみに関係する、つまり自性による自国であろうとし、世界との関係性を否定するならば、何ら外国に力作用を及ぼし及ばされることが不可能な絵に描いた餅のような国家概念を望んでいるとしか言いようがない。絵に描いた餅ではない実際の国家は国民の主観的意識に依る。この国民の主観的意識や生活実態を剥離したら『のっぺらぼう』となり、空虚な概念のみの国家となる。
むしろ国家は、その時代のその国の国民と周辺外国の国民の主観とその対象(客観的国家)とによって関係する。そして本質的にはこの関係性そのものである。だが、この関係性は国家のその時代の民意抜きの自立性を否定するものである。そこでむしろ、認識の対象である国家という概念は、かかる本質的性質が関係性(縁)であるがゆえ没落する。
ここで言われる『関係性』とは認識する主体(能)と認識される対象(所)の関係性である。この関係性、所縁縁では拾いきれない認識不可能域に意識は虚実合わさった国家観や歴史を、現在進行形の権力や世論に沿ってプラパンチャ(概念的に虚構する)のだ。
もう少しミクロ的に語ろう。『都市』は対他的な作用のハブであり、人の流れ、お金の流れの結節である。人やお金や物、企業などの集合、が一時的にストックされ溜まる。川であり湖である。ミクロ的観点で見れば、人の流れ、人と人、人と物、人とお金の縁(関係性)が細胞である。縁の様々な力線の集合する交差点が『都市』である。『都市』から小さな町村までトラックでスーパーやコンビニまで食料や物品を運ぶ。このように性質(性状)は対他的な力作用であり都市や町村はその関係性上の結節である。結節である都市を内臓とし、流通を血流、道路インフラを血管とすれば、人体が国である。
しかし、テクノロジーの進歩が全てを変えつつある。流通は海外に到達し、海外の仏像をアプリ一つで注文できる時代。飛行機で瞬時に隣国に到達し、スマホの言語アプリや外国語教育の充実により、地域性や国民性は失われつつある。都市や国はもはや人の流れ捕え抑えつけることはできない。それがどんなに広大な土地や強い軍隊を持つ大国であろうが、安全と暮らし安さの犠牲に高額の税金を他国に献上している国だろうが、人や物、情報の行き来を阻止することはできない時代だ。
かつて複数の国と幾多の時代と幾多の言語を越え、シルクロードを大動脈として巨大な仏の身体となったものが仏教であるのだが。仏教には多言語性と、この娑婆世界のどの国にも所属せず、仏の御国であるお浄土に所属しているという感覚がある。案外、その御国は地球ということなのかもしれない。