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ヌエ③ チ。を読んで

チ。というアニメがあったが、私は漫画版を読んだ。ラファウが謎すぎました。とりあえずポトツキに1割払わないといけない設定は相続されていく…。

『黒い』『不動』『平ら』『天動』というC教によるテーゼを批判的に措定的反省することにより、このような天動説を本質レベルから捉え返し『青い』『丸い』『自転』『公転』というラファウ達のアンチテーゼから地動説認識に至る。これらを止揚したジンテーゼを皮肉にも、アントニ司教が最も適して言い表していると思う(笑)

『新しい意見や発見を拒絶するのではなく検討して より聖書への理解を深める そういう姿勢が今信仰に最も必要なんじゃないか?』

アントニ司教は金のためとはいえ、最適解を言った。ヨレンタを逃がした修道士を「目の前にあるだろ コイツを今から灰にする」と言ったとは思えない…。

 

さて、前回までは妖怪だったが、今回はチ。にあやかり地動説を例にとって話そうと思う。

○前回までのヌエやのっぺらぼうを通して①積分モデル②微分モデルには矛盾が発見された。この矛盾において、ヘーゲルは前提を疑う。言ってみれば、『我々の意識が観測していない時もモノは客観的かつ個別に存在している』という前提を疑うのだ。そもそもの前提はこのようなカントによる実在論、本体論、不可知論である。このカントの本体論を批判する。換言して言えば、モノの実在性、本質性を疑うわけである。これが有名なヘーゲルのカント批判。弁証法において「反省(reflection)」と呼ばれるプロセスを通して、カントを捉え直す。反省は前提としての事物を批判的に捉え直し再認識する運動である。例えば、ここにおいて『我々の意識が観測していない時ヌエは客観的かつ個別に存在していない』と捉え直してみるのだ。つまり、『シュレディンガーの猫』と同じく観測されていない時、ヌエは猿か虎か蛇か猪かどのようにも個別に存在していない。またその積分でも微分でもない。誰にも観測されていない時、そこに認識上の空白が生ずる。この誰も観測していない時の認識不可能地帯を埋めるために、意識によりヌエが仮設されるのだ。ノヴァクの最期に表れたラファウのように、意識に仮構される。

○ヘーゲルは、2つの矛盾のプロセスを経て考え方を変える。モノもしくは諸性質が独立して存在するという『自性』説の立場を捨て、関係性に依る。これはナーガルジュナの縁起に近い。実在論的な『モノ自体』と『性質』から、実在論的ではない『規定』と『性状』へ捉え直す。

○『性状』は対他的な作用であり『性質』を関係規定の結節として捉え直したものだ。重さだったら地球との相互引力関係、塩の水溶性だとしたらそれは塩の水に対しての関係、火星の赤さだとしたらある波長の光の反射と観測者の網膜との関係として。『重い』『しょっぱい』『赤い』などの性状は縁(関係性)の結節点にすぎない。これらは他の事物に『一定の作用を及ぼす力』として捉えられる。その様々な力線の集合する交差点が依他起性的な『モノ』である。

○『性状』は対他的な力作用であり『性質』はその関係性上の結節である。

○専ら自己のみに関係する、つまり自性(遍計所執性)であろうとし、関係性を否定すれば、何ら力作用を及ぼし及ばされることが不可能な性質の無い『のっぺらぼう』になってしまう矛盾が発生する。すると却って自性は自らを規定できず、よって、モノはそれだけで存在する自性として規定されることには矛盾があるということがわかる。つまり、モノが客観的モノであるとしたら、関係性(縁)を止められた設定が前提ということである。

○関係性(縁)を止められた設定とは、我々がまだ生まれてないころから、地球は球として自転と公転をして存在していた、とする。我々が寝ているときも、死んだ後も。つまり、我々の主観的意識が介在していない時も地球は客観的かつ個別に自性として存在している、というのが地球の関係性(縁)を止められた設定であり実在論の立場である。哲学的には本質的と言われる。

○その反対に、主観的意識から地球が平らである、宇宙の中心に位置する、もしくは動いていないなどの偽の性質が付与されることもある。それに伴い、関係する太陽や他の惑星の性質も偽の性質も関わらず、相互に矛盾しないように関係性を調整され天動説として認識される。つまり、惑星の軌道は惑星自らが逆行して戻ったり立ち止まるかのように。そして不動の大地が宇宙の真ん中に配置される。このような認識上の誤謬が永らく人類を支配していたということは、人間の意識は幻のような、蜃気楼のような非本質的なものということだろう。以上を踏まえて話しを続けよう。

結論モデル

○地球がそれだけで自らを保持するような独立した自性を持つ存在という規定をする。それは、他のモノつまり火星など他の惑星の排除、否定である。それは太陽や他の惑星や太陽系との関係性を遮断する結界であり、鎖国である。極論して言えば関係性(縁)そのものの否定である。それ自体で自らを保持するような独立した地球(自性)であるというテーゼは遍計所執性であり、それ自体で成立しない他に依った地球(依他起性)という在り方の否定、排除である。地球は依他起性的に他天体や観測者と関係しているというのがアンチテーゼ。結局、客観的な地球とは主観的意識、観測からの排除、アポーハである。

○例として天文における観測者のケースを挙げると。他者不在でも成立する独立自性としての地球と、自性の成立により排除(アポーハ)されるべき主観的観測者不可欠の『青い』『丸い』『自転』『公転』性状と対立、排除、因果という関係(縁)が生ずる。列記してみると。

甲:観測意識の関係しない地球

乙:観測意識の関係する地球

甲↔乙(排除)

甲→乙(因果)

○一般的には最初から誰にも依らず客観的に在る地球(甲)から出発して、後から主観的な観測者を介在させる(乙)思考プロセスを辿るだろう。でなければ新天体の発見など無いではないか?なので、甲が原因で乙が因果のはずだ。

○ここでヘーゲルは、甲においては主観的観測者が関係しないということに注目する。そして因果を逆転させ乙→甲とするのだ。例えば、出発点は誰かに観測されている地球(乙)であり、逆に排除された甲、誰かに観測されていないという地球、そこに認識上の空白が生ずる。この意識の盲点、誰も観測していない認識不可能地帯、それを埋めるために、それだけで成立する客観の地球(甲)が後から仮設される。順番が逆なのだ。

○ヘーゲルはこう言った…

『モノは、絶対的な性質(客観)とその対立(主観)とによって、他のモノと関係する、そして本質的にはこの関係性そのものである。だが、この関係性はモノの自立性(客観)を否定するものである。そこでむしろ、知覚の対象であるモノは、かかる本質的性質(関係性)のゆえに没落(zugrunde-gehen) して、その根拠に至る。』…個人的には縁起や唯識に連なる思想だと思う。

ここで言われる『関係性』とは認識する主体(能)と認識される対象(所)の関係性である。この関係性、縁では拾いきれない認識不可能域に意識はモノをプラパンチャ(概念的に虚構する)のだ。

 

 

 

 




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