これは、モノは存在しない、という結論のヘーゲル的な思考ルートを示したものである。予定としてはヘーゲル思想の一部と類似したラトナキールティとラトナーカラシャンティの思想的対立まで書く予定であった。が、長すぎてしまうのであとで書きます。なので、モノは存在しているという錯覚した視点から出発している。謂わば間違いのプロセスを示している。ここでは、先に扱ったヌエをモデルにしよう。本稿は三段に分かれている。本来は五段だが、わかりにくいので三段にした。今回は一段目。心霊写真によくあるパレイドリア現象がテーマである。
①『もまた』モデル
○各動物を独立した諸性質と見做す
まず、ヌエを構成する、多数の動物はお互い直接的な関連はない離散集合として見る。猿、狸、虎、蛇それぞれの性質は独立しているのだ。集合を構成する要素が互いに離れており、諸性質の間に連続性がない。ヌエはこれら独立した諸動物性質を束にしてまとめる輪ゴムのような媒体に過ぎないとする。
○意識の介在『パレイドリア』という輪ゴム
本来、諸性質、諸要素の間に連続性がないが、ヌエという媒介を意識側に存在すると見做すと、いわゆる樹木の木目や雲の形が人の顔に見える、という存在論的にはあり得ない、まさに正体不明だったヌエらしい結論である。『幽霊の正体見たり枯れ尾花』ということ。この心理現象はパレイドリアとも呼ばれるが、ヘーゲル思想のこの時の思考プロセスだと、パレイドリアの対象になるのは心霊やヌエだけではない。我々は世界の全てをパレイドリア現象と同じ働きで見ている。世界の全ては独立した普遍の諸性質要素の離散集合であり、意識の働きにより、パレイドリア的な意識の働きにより離散集合的なバラバラな諸性質が束ねられ固有のモノが見えてしまうこととなる。しかし、これでは関係性の無いバラバラの諸性質が一つのモノとして機能するのか疑問が残る。なので、このパースペクティブは二段目で否定される。
○積分
このパースペクティブのモデルは積分である。諸性質が足し算、積分されて、一つのモノという個物となる。積分ということは無限に小さく分けて差異化していった普遍概念を、改めて足し合わせ個別特殊のトークンを求める、ということである。アビダルマの刹那滅はまさしく積分である。なお、諸性質は普遍であるとする。多から一へのベクトルである。