以下の内容はhttps://ebi76.hatenablog.com/entry/2025/09/23/181750より取得しました。


残り湯とヘーゲルとマルクスの比較

〉知を尽くしても最後まで不可思議は残る。

〉ゆえにそこに「信」が有る所以である。

〉(中略)

〉門前で智の刀を振りかざして挑まんとする。それは未だ門に入っていないのと同じレベルだ。

〉それは「疑」と言う煩悩である。


師僧からありがたいお言葉をいただきました。不可思議と聞いて、過去に所属していた真宗大谷派で毎日読んでいた「正信偈』の南無不可思議光を思い出しました….。


帰命無量寿如来 南無不可思議光

法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所

覩見諸仏浄土因…


信楽というは、すなわちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆえに疑蓋間雑あることなし。ゆえに信楽と名づく』と教行信証にもありました。


疑蓋とは何でしょうか?

仏法の真実をおおいかくす疑いの蓋(ふた)とされています。


と仏の不可思議な働きに対して無条件に信じず、疑いためらいがあり思考すること、そのために信心決定しないこととされています。なので、疑蓋を捨て、自分で思考すること無く、仏を信じることが大事とされました。その結果、信楽があると。


しかし、信仰の結果、私たちがどのような酷い世界に住んでいるのか、今の世の中を見たら疑っても仕方がないと思うんです。ニュースでは日夜、坊さんの不祥事や犯罪のニュースを見かけますし。


例えば、浄土真宗門徒は考え無く無条件に信じ過ぎているようにも思えます。


大先輩のご住職に聞いたところ、真宗は地方に行くと本願寺法主の風呂の残り湯を飲めば難病が治るという信心があるようです。法主が地方にいくと、門徒はみんな風呂の残り湯をもらいたがる。風呂のお湯に浮いた「毛」を「御仏毛」と称してとても大切にされるらしい。


一種の加持水として門徒は捉えてると思うんですが、はっきり言って迷信だと思うし、私はそんな残り湯を飲みたくないです。ちなみに浄土真宗に加持という考え方は無いし、法主の残り湯を飲んでも無駄だと思います。「御仏毛」や「残り湯」は善知識信仰のような危険度があります。どこかのサティアンにいる人たちや、「この洗剤飲めるんです」と主張するアムウェイの人たち並みの危険度です。法主残り湯もアムウェイ洗剤も、胃腸や肝臓によろしくは無さそうです。


思うに、農村部ではこのような信仰が育ちやすいし、農民が担げば、利権でよい思いをしたご住職もいたに違いない。昔の農民は純朴であまり疑うことを知りません。昔の農民は信じやすいが、教養もないので彼らの価値観に教学をねじ曲げてきます。蓮如上人がどこの村に行っても、村一番の美女を提供されて28人も子供を造ってしまったという、笑い話のような伝承もあります。星宿の数だけ子を造ってしまったのですね、狙った数なんでしょうか。出家者がそんなに子供造ってどうするんだろう。上座部仏教チベットや中国の僧侶が見たらひっくり返ってしまいます。しかし、これは当時の日本の農村の価値観が子供をたくさん造ることは偉い、みたいな農村的多産価値観があり、本来女に触れることできない不犯の僧侶が、そのようなことになる。話を合わせている間に農村社会の闇に取り込まれる。こう書くと農民蔑視とか言われて毛沢東からぶっ飛ばされそうですが。考えること、知識を学ぶこと、ファクトチェックをしないとそうなります、出家者に美女をお布施するのが善行と思ってしまう。また農村部のこうした闇はさらに部落という深い闇を抱えました。貧富もバラバラの農民は意見の統一ができないが、村落から共通して排除されている共通項(被差別民)を定めることにより共通の階級地盤を得るわけです。ちなみに部落における寺院はだいたい浄土真宗でした。


そのような農村的価値観と迷信、利権と保守、そして部落差別による真宗社会の闇は大谷派においては清沢満之本願寺派においては西光万吉の水平社宣言まで続きます。西光万吉についてはまたの機会に書きます。


清沢満之ヘーゲル哲学を引っさげて、真宗を近代改革しました。僧侶だった清沢は東京大学哲学科に入学、首席卒業後、井上円了と「哲学会」を始め、「哲学館」創設、講師になります。「哲学館」はその後に東洋大学となりました。その後、東本願寺における近代的な改革を進め、大谷派保守勢力との絶え間ない摩擦の中、伝説の仏教サークル〈浩々洞〉を開設します。現代の大谷大学はその系統の教学です。清沢満之が初代学長になって以来、代々の学長が浩々洞メンバーなのだ。


清沢は当時の真宗に足りなかったもの、もしくは真宗独自のもはや仏教ではなくなってしまった教学を無理やり論理的に整備するために、ヘーゲル哲学で埋めた感があります。惜しむらくは、これにより仏教本来から離れた部分もあり、もう少しそこをディグナーガやダルマキールティで埋めれる部分もある思います。逆輸入再変換ですが。思うに仏教哲学とヘーゲル哲学はもっと比較研究できる余地はあります。ので、ブログにつらつらと書いてるわけです。

 

また、現代仏教界を生き抜くには哲学までいかなくとも考え抜く必要があります。信心のみで考え行動せず、受け身で行った結果、坊さんの不祥事や性犯罪ばかりが発生する世の中になってしまいました。私の知ってる坊さんの不祥事を全て合わせれば、一冊本が書けるくらいです。皆、仏を信じてるのになぜそうなるのか。さらには、坊さんの経済危機ももっと考えなくては、僧侶は皆、食えない世界になります。我に信心あり、と拝みまくっても、営業も布教もしないなら意味ないでしょう。求聞持法ばかりやって勉強しないのと同じです。勉強して考え抜いた末の信仰ならわかりますが、考えもしないうちに信仰すると風呂の残り湯を飲むハメになると思います。よく言われるノーマインド、無思考というのも思考尽くしてその末に捨てるのであって、はじめから思考放棄せよという事ではないでしょう。初心者が剣の道の奥義が無刀なりと知って、刀を使った素振りも形稽古もせずに無刀取りが正しいので刀ふらなくていいやと勘違いするようなものです。また、そんな哲学や論理学わかんないと言っている人々が、自分の娑婆での職業の法律や会計、プログラミングや薬学、心理学、占いにはこちらが舌を巻くような、よっぽど複雑な深い知識を持ってらっしゃるのはなぜでしょうか?たんなる哲学の食わず嫌いでは。

 

さて、ではヘーゲルと比べてみましょう。⚪︎はヘーゲル、⚫︎はマルクスです。


① +④〈使用価値、それだけであるもの〉

⚪︎媒体としてのモノが、それだけで成立する独立した諸性質をまとめ1つの束にしている。

⚪︎ モノはその本性から自らにおいて媒介されているということを表出する。それによって、対象は数多の諸性質の物 (Das Ding Von Vielen Eigenschaften )として自らを示す。


    ⇅

⚫︎商品は労働の凝結物である。

⚫︎労働の凝結物は様々な労働過程の複合をまとめて1つの商品としている。

⚫︎生産過程の異なる個別の諸労働と諸労働、つまり違う会社は各々独立して考えられている。

⚫︎商品は製造した会社、工場、生産国、原料を自ら示し記載する。

⚫︎ユーザーから見たら商品そのものが財であり、商品のみで成り立っているように見える。これは使用価値と呼ばれる。

 

②+③〈交換価値、他に対してあるもの〉

⚪︎諸性質はお互いに排除し合い、関係し合っている。

⚪︎1つの独立したモノであることは、多数である諸性質から共通して排除される。

⚪︎ 集合の諸性質に共通項はないのでモノとして統一できないが、諸性質から共通して排除されている共通項(一者的なモノ、1つの何がしかであるモノ)を虚構することにより共通の地盤を得る。

    ⇅

⚫︎市場の形成により、商品交換が行われる。

⚫︎等価交換形態が出てくる。

⚫︎等価交換は、全く異なる個別の諸労働と諸労働の交換である。

⚫︎抽象的な一般労働という、労働の均一化された概念が、労働の生産物の等価交換をもって反映される。つまり、給料、時給となる。

⚫︎各種商品から排除共通項である、社会的合成商品が誕生する。つまり、貨幣である。

⚫︎虚構された貨幣が"排除する一者"として商品や労働の中心となる。


ヘーゲルの言う「虚構された排除する一者」をマルクスは貨幣として語ります。




以上の内容はhttps://ebi76.hatenablog.com/entry/2025/09/23/181750より取得しました。
このページはhttp://font.textar.tv/のウェブフォントを使用してます

不具合報告/要望等はこちらへお願いします。
モバイルやる夫Viewer Ver0.14