マルクスとヘーゲルの比較に行く前に、今までのヘーゲルの解釈において、誤差があったために修正しました。読者さまには混乱させて申し訳ない。自己批判します(笑)
訂正部分を以下に記します。かつわかりやすく系統ごとにまとめてみました。
①+④〈もまた〉モデル
独立しているのは諸性質だった。モノが独立したと勘違いしていたが。モノは媒介するにすぎず、独立した諸性質の束、集合である。モノの実体は無く、ヴェーダのいう自性というよりは五位七十五法のような諸性質、諸要素の集合、モノはただそれを束ねる媒体のような考え。しかしながら、独立した普遍的諸性質がお互いに何の関係も無く、個別特殊のモノを形成するのには矛盾がある。そこで、意識の登場である。意識外には独立した普遍諸性質のみがあり、モノは意識の中でこれらを媒介している束であるにすぎない。モノは媒介するだけの謂わば非本質的虚構である。しかし、実在論的にこれはおかしい。特殊な個々が普遍諸性質の合成などとはデジタルでバーチャルな視点すぎるのだ。まるでこの世界はAIの合成されたゲームのVRポリゴンなんだよ、というような。これでは個別特殊ということ自体が成立しない。矛盾がある。
諸性質が独立して普遍という時点で、例えば赤い林檎が腐って黒ずむ、ということが成り立たない。
よってこの①+④ルートは閉鎖される。
②+③〈排除する一者〉モデル
これはカント的なモノ自体の思考ルートを辿る。モノは独立した無媒介な1つのモノであり自らの内に差異を持たない。では、排除する一者であるモノに、排除された諸性質はどこへ行くのか?意識の側に行くのだ。仮に〈意識〉が諸性質を分別、排除(アポーハ)する限りにおいて諸性質、諸要素に分割される。各々、諸性質は意識内で排除し合う関係性を持つ。しかし、排除共通項である諸性質を剥ぎとられた意識外のモノが、他のまた1つであるモノと区別を持てないため、矛盾が生ずる。全世界が区別つかなく等しい。これだと色即是空は成り立つが、空即是色は成り立たない。のっぺらぼうは再び分別化される契機を持たないのだ。しかし、このまま突っ走ると真如縁起+唯識となる。
赤い林檎が腐って黒ずみ土に還る、ということが意識上で起きても、分離されたモノ自体は何処へ行ってしまったのか、ということになるまいか。しかし、如来寿量品や十如是の究竟等はこの路線である。
※ 知覚自体は無分別なものなので、悟性的な意識が分別している。
その後の展開と致しましては、龍樹的なものになります⑤。チラッと言いますと
⑤性質から性状へ、となる。諸性質と違い、諸性状は実在論的なものを要求されない。