お寺でつまりは祈祷札を千枚造るのに僧侶3人でどれくらいかかるか?筆耕やハンコ、護摩を焚き祈祷するのを、これら宗教的行為を労働と呼べればですが…この祈祷札は僧侶の腱鞘炎になりそうなほどの筆耕労働が、祈祷という宗教行為に混合しているのは確かです。この祈祷札は僧侶の労働の凝固したものです。…筆で耕して種字を書く…わけです。
労働と言えば、スッタニパータには仏陀とバラモン"バーラドヴァーシャ”の有名な説話があります。この説話により仏は、物の交換や、金銀による取引を禁止しました。
『詩を唱えて報酬として得たものを、わたくしは食うてはならない。バラモンよ、このことは正しく見る人々、目ざめた人々のならわしではない。詩を唱えて得たものを、目ざめた人々、諸のブッダは斥ける。バラモンよ、定めが存するのであるから、これが目ざめた人々の生活法なのである。』
さらにブッダはバーラドヴァーシャに乳粥を捨てさせます。乳粥は沸騰し湯煙を立て、チッチタ、チッチタと沸騰音を立てておさまらなかった、と恐ろしげな、警告ともとれる描写があります。因みに、このバーラドヴァーシャなるバラモンは名前は同じなんですが「びんずる尊者」かどうかは定かではありません。
兎にも角にも、この話から仏が如何に労働の交換報酬を厳しく禁じているかわかるでしょう。なので、当然お金に関する戒律があります。十戒にある捉金銀宝戒というものです。
具足戒(波羅提木叉)の中に所有物に関する戒律に捨堕というものがあります。その中でも重要なのが以下の戒律。
受畜金銀戒:金銀、貨幣の受領、人への支払い、貯蓄をしてはならない。
貿易金銀戒:金銀、貨幣の取り引き、貸借りをしてはならない。
種々販売戒:様々な利益を伴う売買をしてはならない。
しかし、現代の資本主義社会ではまず不可能でしょう。ピカールやお香など日用品もお金がかかります。境内墓地のある場合、墓石はもちろん、墓地の土地代のやり取りもお金です。葬儀のお布施もお金でやり取りします。お寺の屋根の瓦などの設備経費も貨幣で支払わなければいけません。これらは寺院が利潤を追求する会社のようにならざるを得ない、ということでもあります。
例えば、サンガ共産政府のようなものがあり、全ての商品と経費と食費を配給とするならば、仏教戒律上は禁止された、商品や労働の交換経済には当てはまらないのでは、とも考えられます。
ちなみに私は、中国など共産圏の人々に仏教を広めていく過程で、仏教は『擬態』する必要があると思います。法華経の化城喩品にはダミー教義の設定許可があります。6世紀以後のインドはヒンドゥー政権であり、仏教はヒンドゥーへの擬態を行ってました。そこでホーマを真似、護摩として天部信仰が確立されました。国家神道の廃仏毀釈時も様々な試みで、仏教は今日まで生き延びてきました。万が一、中国に日本の一部が占領された時の人民解放軍への言い訳として共産主義に擬態した仏教。または逆にマルクス主義者への布教に特化した仏教も考えることは無駄ではないかもしれません。
さて、祈祷札、御守りは果たして「商品」なのでしょうか?
商品は労働の凝固という、言葉があります。商品Y個を造るのに労働者X人で何時間かかったか、それにより価値が決まるということです。これは労働価値説(LTV)と言って古典経済学の肝です。ウィリアム・ペティが提唱し、アダム・スミスやリカードが理論を固め、マルクスが発展させました。古典経済学の説であります。つまり、商品の公正価格は、人件費(労働量)+原材料費+諸経費により決まるということです。この価値は交換価値であり、使用価値を離れています。交換価値とはマーケットでの価格ということ。それに対して使用価値とはユーザーから見た価値ということです。使える、丈夫、コスパよい、などは全て使用価値ですね。
マルクス思想はヘーゲル哲学の経済における応用です。しかも、かなり強引に適応させている節があるのだが、それでも経済学として一流派を形成しているのだから、マルクスもまた天才なのだろうと思います。だいたい、なぜかマルクスにしろノイマンにしろアインシュタインにしろフリッツ・ハーバーにしろ、なぜかこれらユダヤ人は宇宙人かと思うほど天才的です。
マルクス経済学の前提として以下のものがあります。
①商品は労働の凝固物である
②商品は交換価値と使用価値を持つ
③交換価値と使用価値は違う
④生産力の向上により交換価値は下がる
マルクスは、ペティ、スミス、リカードから労働価値説を引き継いだだけでなく、マルクスはヘーゲル哲学、例えば相対と一般の概念的対立を引き継いでいます。この対立はヘーゲルだけでなく仏教とバラモン教の論争において長らく対立のテーマでありました。
⚫︎相対(個別)
⇅
⚫︎一般(普遍)
ちなみに仏教は一般、普遍を存在しないとします。普遍的林檎が無いように、普遍的な仏という考え方もしません。個々の行者の拝む仏もそれぞれです。わかりやすく言うと、例えば五体加持や神おろしにおいて霊媒に〈一般普遍の不動明王〉なんてものは降りてきません。必ず、目黒の不動じゃ!と〈どこそこの神仏〉と個別性を表すのです。個々の行者の心に照応した神仏ですから、独自です。この〈どこそこの神仏〉が個別、哲学的に言えば相対または特殊と言われるものです。対して、一神教は個別を排して普遍へと向かいます。個別、地域的性質の特殊を持った宗教や神々は〈悪魔〉とされてきました。アブラハムの宗教にとって個別、特殊は都合が悪いのです。
これは一と多の戦いであり、ヘーゲルのメインテーマでもありました。ヘーゲルの思想的弟子であったマルクスは経済学にヘーゲル哲学を直輸入してしまいます。