これまでのヘーゲルの話しを図解でまとめてみました。
①自性や属性(グナ)。
◉ 物自体{1}
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├─●性質 A
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├─○性質 B
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├─■ 性質C
│
└─△ 性質D
⚪︎物自体が諸性質まとめている{1}
⚪︎性質はお互いに無関心で独立した自性
⚪︎諸性質は1つの物を媒介としている。
②縁起と排除(アポーハ)、名色分離智
関係性〈縁〉に依る諸性質*のネットワーク
排除A ≠ B ≠ C ≠ D ≠ E ≠ F≠G…
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* *
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* ◉{1 ≠*} *
│ 【排除された物自体】 │
*(諸性質の排除共通項) *
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*はそれぞれAからの諸性質とする。
⚪︎諸性質はお互いに排除(アポーハ)し合っている。
⚪︎物自体は分割不可能な排除する一者なので、共存不可能な諸性質は排除され分離する。
⚪︎諸性質を剥がされ排除された物自体が◉となる。
⚪︎諸性質はお互いに排除しあうが、物自体とならない≠という排除(アポーハ)をもってのみ共通項とする。
⚪︎意識が認識している限りにおいて、諸性質はお互いに排除、区別しあう。一者的な物自体は分離されて本質的なモノとして意識外にあるとする説、即ち③へ移行する。
⚪︎知覚自体は無分別なものなので、悟性的意識が分別している。
③有形象認識論、意識と対象の分離
関係性〈縁〉に依る諸性質*のネットワーク
排除A ≠ B ≠ C ≠ D ≠ E ≠ F≠G…
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* *
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* 👁️🗨️意識 *
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* *
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外界➖➖➖ ➖➖➖ ➖➖➖ 外界
◉{1 ≠*}
【排除された物自体】
(諸性質の排除共通項)
もしくは真如
⚪︎お互いに排除しあう諸性質は意識内にあり、排除する共通項である物自体、つまり諸性質の剥がれた物自体は外界にある。諸性質が剥がされた時点で自性という考えは怪しくなってくる…
⚪︎のっぺらぼうとなるので、諸性質として区別排除できる契機を持てない矛盾が生ずる。
④ 無形象認識論、無限の差異は非本質的なれど必然的に外界に観察できる。それが個々の自性に見えてしまう理由を示す。
👁️🗨️
◉{虚構された物自体}
【意識は縁起性を否定する】
否定する〈力〉を発見
外界➖➖➖ ➖➖➖ ➖➖➖ 外界
排除A ≠ B ≠ C ≠ D ≠ E ≠ F≠G…
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* *
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* 諸性質の無限差異縁起 *
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* *
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⚪︎諸性質の無限差異縁起、無限の差異の戯れが真実であり、物自体はそれを否定した上で仮構された幻に等しい。
◉ヘーゲルの『精神現象学』の思考を、仏教哲学史に当てはめてみれば…
①自性や属性(グナ)等のヴァイシェーシカ学派に似た思考から
②ディグナーガと似た排除し合う性質の縁起と、自性(物自体)の分離(名色分離智)
③必然的にアポーハは意識がしている説に移行、ダルマキールティに似た有形象認識論と、性質を剥がされた自性(物自体)は区別を持てないことから真如縁起への発展、矛盾発生。
④ 無形象認識論からのナーガルジュナの空の思想に似てくる。一周して自性(物自体)と性質の独立性を否定。
◎弁証法的発展をするヘーゲル哲学だが仏教哲学史で言うと、一周してナーガルジュナに戻ってしまっている。
しかし
ヘーゲル哲学に限定して言えば ①から④へ進む自らの思考プロセスを俯瞰して、弁証法における〈力〉の概念、弁証法を進行させる〈力〉に気づいたわけですね。