マヨヒガ(迷い家)とは、東北、関東地方に伝わる怪談で、柳田國男が「遠野物語」で紹介したことにより広く知られるところになった。「マヨヒガ(まよいが)」とは遠野での呼称である。

典型的なパターンとしては、山奥深くに迷い込んだ者が偶然立派な門を持った屋敷にたどり着く。屋敷の庭には紅白の花が咲き乱れ、沢山のニワトリ、牛馬がおり、座敷には綺麗な食器が多数並べ出されており、火鉢の火はついたままで、囲炉裏には沸いたばかりのお湯がかけてある。しかし、人は誰ひとりおらず、呼びかけても応える者はない。迷い人は暫し休息を取った後、什器をいくつか携えて屋敷を後にした。そしてようやく山を抜けることが出来たが、再びかの迷い家を訪ねようとしても決してたどり着くことは出来なかった。持ち帰った什器で米を計ると、いつまでたっても尽きることはなく、迷い人の家は里に戻ってから大層繁栄し、一躍大金持ちとなったという。
「迷い人がたどり着く」「無人」「椀などの什器を持ち帰る」「訪問者の家が栄える」などの共通点を持ちながら様々なバリエーションが存在する。無欲な人が何も持ち帰らずに迷い家を後にすると、あとから川上からお椀が流れてきたりする。その椀を使って穀類を測る升(ます)とすれば穀倉は尽きることがなくなるともいう。
意識体が離脱して人の中に入る・・どうも、その現象は古来からあったらしい。それらの現象を前回「ぬらりひょん」と表現したが・・こんどは「ぬらりひょん」視点で見てみよう。自分が散歩していると家がある。家に入ると、食事の支度はととのい、風呂にも入れるが、誰もいない。何かを持って帰れたら、繁栄し、大金持ちになる。大金持ちになるは暗喩である。何らかの価値あるものを手に入れることができる。似たような話しが前回ご紹介した新約聖書での「ガダラの豚」だ。
「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出てきたわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除して、整えられていた。そこで、出掛けて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」マタイ12・43~45
イエスの悪魔祓いの説教は、日本各地に伝わっているマヨヒガ(迷い家) の話しとそっくりだ。ただし視点が逆である。日本では憑き物視点なのだ。他心通など他人の脳にアクセスできる、そのサイキックな力を持つ者ならば、この現象の意味もわかるのかもしれない。攻殻機動隊にも他人の脳にハッキングする似たようなシーンがあった。
それが、日本の昔話、怪談に表されているというのは驚くべきことである。
「家のものを持ち帰ると繁栄する」
家のものを持ち帰るとはどういうことか? ・・それは「家」となっているものの「記憶」もしくは「考えていること」である。つまり、相手の心を読むということだ。
バチカン公認のエクソシスト、カンディド神父の体験談で本人が最も恐ろしかった体験として挙げているものが、
読み書きのまだできない小さな男の子が悪魔祓いに連れて来られ、いざ悪魔祓いが始まり、カンディド神父が、
「お前は自分の目で見ているのかね? それとも、その子の目を通して見ているのかね?」
と“悪魔”に質問すると、いたいけな少年は神父を嘲笑いながら言い放った。
「俺は、このガキの目と俺の目で見ているんだ。覚えておくんだな、お前にできるのは現象(フェノメノ)を見る事だけだ。お前らが本体(ノウメノ)と呼ぶもの、隠されているものを、お前は決して知り得ない」
少年に憑いた“悪魔”が語った本体(ノウメノ)という言葉は、神父がその時脳裏に浮かべていた言葉だった。それ故に、カンディト神父は恐怖したのだ。
これが、相手の心を読むということだ。憑き物が取り憑いたときの「憑き物の立場」と言おうか。呪術師または占い師でも、たまに、このような能力のある人はいる。
映画「インセプション」では標的となる人間の「記憶」に潜り込み、「記憶を盗む」、もしくは「記憶を書き換える」 プロフェッショナルたちの姿が書かれていたが、そのようなものである。「ある種の記憶」には価値があるのだ。
呪術でよく言われることが、得るものと対価として払うものは等価交換である。必ず、苦痛を伴う。私は占いをする時、実験的に、他人の心、記憶を読もうとしたことがあるが、かなりの苦痛を味わった。逆に記憶の主であるお客さん、つまりマヨヒガが「私」を取り込もうとするのだ。前回の「自分にしちゃえ」の関西の呪術師や「聞き分けのない霊は、食べる」の霊能者と同じである。彼らは特別なことは言ってない、人間の意識には侵入者を自分と見做して取り込もうとする習性があるのだ。取り込んだものが異物すぎると「憑き物」として奇怪な行動をとるようになる。
マヨヒガが私を取り込もうする、そのものの心の中では〈私〉に従え!!という、命令の嵐が吹き荒れている。
術者は、取り込まれている間は、何をやっても、取り込んだ記憶の主側の行為と勘違いされる。こちらの名前はいっさい呼ばれないのだ。意識の違法侵入者にとって驚くべきことに、多くの「人の心」・・それは「家」と表現されるのだが、その家の主人、つまり記憶の主は「自分のほうが偉い」と必ず思っている。
そのうち、侵入しているうち、侵入者は自分の生きてきた軌跡、親兄弟、恋人、妻までを「マヨヒガの主」の人生と混同しはじめる。これは、おそろしいことである。自分の個人的な幸せがすべて他の者の幸せとなる苦痛を思えばいい。他化自在天の大笑いが聞こえるようだ。お客さんとシンクロしすぎたセラピストはこうなると思う。
皆さまも経験おありかもしれない、相手にシンクロし過ぎるとなぜか、相手のできることが、できることがある。「ダンス」のステップやら、「武道」のおける身のこなし、「外国語」でも言ってる内容がなぜかわかる、などが起こる。
侵入して、マヨヒガに食べられて感じることは、被侵入者には周囲の見知った人間に写っている・・が、中身は私なので別物である。 家側のエネルギーが侵入した私と仲が良ければ、仲のよい知り合いに。仲が悪ければ、仲の悪い知り合いに。そう相手の意識には写るものである。が、目に映るものだけが真実とは限らない、私でない友達の顔に脳内変換されているかもしれない。そのように変換されるが、哲学的に言えば、マヨヒガの主に所属した、性状、つまりマヨヒガ世界における表面的存在となってしまった。これは本来なら閉じた世界で外部から入り込む余地はないが、迷い込むところがこの話しの妖怪的な怪しさである。
マヨヒガに食べられた私、ぬらりひょんは「諸性質を剥ぎ取られた私」であり、選挙の無記名投票のようなものであり、誰でもあるが故に、逆に誰でもない。自分でもなく他人でもない。無所属だ。〈自一他〉は…忍者の隠し扉「どんでん返し」のようなものではなかろうか?意識はそこを抜けることができるが、抜けた意識は、誰に所属してるのかわからない。つまるところ私は誰なんだろうか?