③唯識モデル
これまでの流れをまとめると
①意識外において、諸性質は無関心に多数あり、〈物自体〉、独立した"物自性"がまとめている。が諸性質が独立して関係性を持たないと、お互いに排除ができず、白い性質と黒い性質が同居してしまう可能性がある。よって、②説に移る。
②意識外において、諸性質はお互いに関係性(縁)をもっており、お互いの排除、差異をもって諸性質を規定している。〈物自体〉は成立しないので諸性質から排除される。独立した"物自性“が無い(無自性)ことが、逆説的に諸性質から唯一の共通項という縁が起こり、諸性質をまとめている。反転した虚数太陽のようなものである。諸性質が惑星のように一定の関係性を持って周りを巡る。また外界の関係性だけでは知覚が生じない問題により名色分離智が生ずる。
③諸性質が知覚と共に意識内にあり(唯識)、意識外に分離した〈物自体〉がある。
法称(ダルマキールティ)の「有形象知識論」では形象などの諸性質は知識(認識)側にある。外に在るものはあくまで真如の顕現とするのだ。
これを、真如縁起、如来蔵縁起とも言う。真如は一味平等であるが、この真如より染浄(ぜんじょう)の縁にしたがって、一切万有の生滅の相が生ずるということ。
「人にとっては清らかな水は、餓鬼にとっての煮えたマグマに知覚される」
ということからわかるように、意識側に所属する知覚や分別知により諸々の性質の差異は分別、認識される。そして、この分別は無始以来の意識の堆積による《錯誤》だとする。
ヘーゲルの思想もこの段階においては、モノと諸性質はお互いに排除し合い、意識内外に分離された(名色分離智)。
以下のようにお互いに排除し合う。
モノ:1つであり、普遍的である。
⇅
諸性質:多数であり、個別的であり、特殊である。
一と多の対立があるわけである。
ヘーゲルは対象である角砂糖を諸性質〈色〉から引き剥がす。つまり角砂糖から白くもまたあり、四角くもまたあり、甘くもあり、またザラザラとしているという性質を引っぺがして、諸性質の所属が意識側に存在するとする。ただ一つの、概念の普遍的角砂糖〈名〉が意識外に残る。意識側の諸性質は、それぞれの関係(縁)により、無始以来の潜在意識に堆積された《錯誤》により認識をし、その結果「人にとっては清らかな水は、餓鬼にとっての煮えたマグマに知覚される」
つまり、意識は《錯誤》、幻、蜃気楼のようなものだ。インド哲学的に言えばマーヤー。対するモノ側に真理があり、〈梵〉の顕現とするのだ。
しかし、ヘーゲルはこのモデルでも不都合が生ずるとする。「普遍の角砂糖」は逆に〈一者〉の顕現という思想でつまずいてしまうのだ。諸性質は意識の側の関係性(縁)として成り立つ。しかし、それを排除という仕方で逆説的に統一してまとめるイデア的な「普遍の角砂糖」が成り立たない。諸性質を分離したとたん「角砂糖本体」は、他の角砂糖以外のモノ(例えばボールや椅子や目玉焼き)と排除、区別ができなくなるのだ。〈一者〉に飲み込まれて。なぜなら〈一者〉もしくは〈梵〉は自らのうちに差異や区別を持たないから。
仏教的に言えば、如是本末究竟等となり、全て等しく一如の〈真如〉になるはず。すると、角砂糖を角砂糖として個別化ができなくなるのだ。角砂糖という名前と性質を剥ぎ取ったものと、岩塩から名前と性質を剥ぎ取ったものはどう違うのか?如是本末究竟等であることは、一つのモノとして個別化する原因にはなりようがない。「モノが個別に存在する」という前提がまずあるので、個別化が成立しないとヘーゲル的にはまずいのだ。
この不都合により、ヘーゲルは諸性質をモノの側に〈返却〉する。