②縁起モデル
①とは正反対のモデルを考えることができる。つまり、1つのモノに所属する諸々の性質は、その差異において縁(関係性)において存在しているにすぎず、お互いを排除(アポーハ)する関係性のもとに、成り立つ。
すなわち、甲という性質は 乙でなく、乙という性質は 丙ではなく、丙という性質は甲ではない、という関係性のもとにある。全て差異がありお互いを排除して性質が成り立っている。これらの諸性質に共通しているものは、角砂糖そのもの(角砂糖自性)ではない、という共通項だけなのである。
甲:白い
乙:四角い
丙:甘い
丁:ザラザラ
戊:その他すべての諸々の性質
四角いということは白いということではなく、白いということは甘いということでなく、またこれらは各々、他のすべての性質を排除しており、逆にそれ故に成り立つ。諸性質を数値に置き換えるとわかりやすい。数値の差や関係により数値が成り立つわけだ。関係性(縁)により存在するということは、自性を欠いている(無自性)ということである。つまり四角という性質は四角のみで存在せず、甘いという性質もそれのみでは存在し得ない。しかし、不都合が2点発生する。
A:集合の諸性質に共通項はないので「角砂糖」として統一できない。
これをヘーゲルは縁により成り立つ諸性質グループから共通して排除されている唯一の共通項〈角砂糖そのもの〉を反転させ、本体(ノウメノ)とすることにより、解決するのである。つまり、諸性質を排除した角砂糖本体があるとする。角砂糖本体が、その他の諸性質を排除する一者である。ここら辺は龍樹や陳那とはかなり違うカント的なものになっている。
呪術廻戦の反転術式でもないが、諸性質(多数性、縁起性)に排除された、角砂糖本体(一者性、自性)が反転して中心に収まる。ヘーゲルは仏教を知らないので、ここで空に向かわず、諸性質を分離させた観念の角砂糖で蓋をするわけだ。
解決策として、本体(ノウメノ)的な角砂糖をヘーゲルは想定する。この角砂糖に諸性質は付属していない。つまり、ヘーゲルほモノ本体から諸性質を引き剥がして、何の味もしない概念の角砂糖をモノの本質とする。〈名色分離〉するのだ。性質を剥がされて残った観念的な本質はヴェーダーンタ学派のスポータに似ています。言語ブラフマンというやつである。
B:知覚の再現が不可能
関係性、差異、排除のみで諸性質のそれぞれの働きが説明できるか?ということだ。例えば「甘い」は「四角い」とはお互いに差異があり、まるで違う、排除し合うが、それにより果たして甘さや丸みを感じるかどうかは疑問が残る。つまり、アポーハによる差異だけでは諸性質の知覚に及ぼす効果は説明できない。また、観念の角砂糖では味がしない。
このことより、またBの性質と知覚の問題を解決すべく、そこでヘーゲルは新たな思考段階に移行する。諸性質の所属が意識側に存在するという仮説を立てるのである。まるで、陳那の無形象知識論に基づくアポーハ説から、法称の「有形象認識論」への変遷のような思考プロセスだ。