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エクソシストとNoumenon

エクソシストとの対話 (講談社文庫)という本がある。金翅鳥院の本棚にもあったような。

バチカン公認のエクソシスト、カンディド神父の体験談で本人が最も恐ろしかった体験として挙げているものが、

読み書きのまだできない小さな男の子が悪魔祓いに連れて来られ、いざ悪魔祓いが始まり、カンディド神父が、

「お前は自分の目で見ているのかね? それとも、その子の目を通して見ているのかね?」

と“悪魔”に質問すると、いたいけな少年は神父を嘲笑しながら言い放った。

「俺は、このガキの目と俺の目で見ているんだ。覚えておくんだな、お前にできるのは現象(フェノメノ)を見る事だけだ。お前らが本体(ノウメノ)と呼ぶもの、隠されているものを、お前は決して知り得ない」

少年に憑いた“悪魔”が語った本体(ノウメノ)という言葉は、神父がその時脳裏に浮かべていた言葉だった。それ故に、カンディト神父は恐怖したのだ。

悪魔の言った、本体(ノウメノ)とは何であろうか?英語の哲学本ではNoumenon(ヌーメノン)と言われているようだ。対する現象(フェノメノ)はPhenomenon(フェノミナン)である。ラテン語と英語の違いだろう。

しかし、読み書きもできない幼稚園くらいの少年が、なぜラテン語を話せるのだろうか?ラテン語古代ローマ語で、イタリア語の原型である。現在話し言葉としては死語であり、バチカンのミサでしか使われていない。日本仏教でいえば表白みたいなものだろう。

Noumenon (本体)とは、カント哲学で、悟性対象としてのみ考え得るもの。悟性対象として、あらゆる事物が主語によって内的に分析され得る。あらゆるものが一致し、矛盾のない世界を構成する。「物自体」として想定されるようなもの。「物自体」とは、人間の認識を超えた、事物そのものの実在である。例えば、目の前にある角砂糖を認識するとき、それはすでに空間や時間や各々の肉体の眼という私たちの認識の形式を通して捉えられたものである。カントは、この認識のフィルターを通る前の、事物そのものの実在を「物自体」と呼んだ。

カントを批判的に継承したヘーゲルだが、その知覚説において、最初にカントの〈物自体〉的な本体説だったものが、最終的に縁起の法と似たものとなるので、その流れを追ってみよう。

⚫︎前提

単純なものとして規定された一方のものすなわち対象は、実在である。それは知覚されるのか、されないのかということに無関心である。他方、運動としての知覚することはそれが存在することもあればしないこともある非恒常的なものであり、そして非実在的なものである。(ヘーゲル)

ヘーゲルはモノの前提としてこのような定義を提示する。

①モノは知覚されるのか、されないのかということに無関心にそこに在る(物自体)。

②また、意識的な運動としての知覚することは、知覚することもあればしないこともある無常なものであり、実在性は無い。

③ モノが意識とは切り離されて存在していると考える、デカルト的な立場をとる。

④モノが意識との縁(関係)なしにはありえない時、モノは実在してないと考える。

そこから、仏教的認識論に酷似したものをピックアップして、論理展開を追っていこう。(続く)




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