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梵と輪廻と〈悪無限〉

ここで、ヘーゲル哲学における、あまりに重要な概念である〈悪無限〉という言葉を説明します。

プロティノスヘーゲルの言う〈一者〉は、各民族、宗教、文化のバイアスに合わせて様々な呼び名があり、〈神〉や道〈タオ〉、〈梵〉、〈一如〉とも呼ばれる。人格神ではない根源一者。それ自身において差異や区別を持たない、つまり如是本末究竟等ということだ。ここではインド的伝統に合わせて〈梵〉と呼ぼう。

仏教的伝統においては〈梵〉つまり根源一者をどのような呼び名であろうと呼称し、絶対的他者として礼拝することはしない。〈梵〉を他者とすることが、主客の分離されたリアリティとなる原因であることを踏まえて、誤謬への対策として〈梵〉やそれに相対して乗り越えられるべき有限者としての〈我〉を言わない。

なぜなら、有限者である〈我〉が、無限の〈梵〉に開かれて合一するにあたり、名前を呼び礼拝するということは他者化であり、〈梵〉が梵自身として梵を意識することにおいて障碍となるからだ。この恐るべき障碍は、ヘーゲル的には〈悪無限〉と言われているものだ。私の解釈に過ぎないが、東洋的伝統にあってインド古代の賢者たちにより、同じような考えから〈輪廻〉と言われたのだと思う。仏教ではこの障碍に陥らないように、あえて〈梵〉を言わない、方便、仏の智慧により。

では、〈輪廻〉ヘーゲルの言う〈悪無限〉とはどのようなことなのか?それを追っていくことにしよう。

あらゆる寿命を持ち有限者であるところの〈有情〉は自らの有限性から無限である〈梵〉との合一をもって無限性を獲得し、永遠の安楽に休むため苦海を輪廻する。また、その旅路において失敗し、自らの有限的な在り様からの解放、即ち解脱を求めているということを認識できない地獄、餓鬼、畜生の三悪趣に陥ろうとも、〈有情〉の根本には自らの有限性や苦しみからの解脱を求めている心〈菩提心〉が備わっている。

その菩提心により、無限者である〈梵〉との合一を目指して有限者である甲が、甲の限界を乗り越えていく、自らの滅、つまり死をもってその限界を乗り越えていき限界を突破し、甲にとっての無-限界である乙となるが、乗り越えられたところの乙が、乗り越えたところの甲と縁を持つ。前世と来世という縁(関係性)を持つ、つまり乙もまた前世と比較しうる何がしかとなるため、つまりまた有限者に立ち戻ってしまう問題である。これが〈転生〉である。これは〈有限者〉であった私を否定して乗り越えて〈無限性を持つ他者である梵〉に合一しようとすることにより逆説的に〈梵〉と分離してしまうことを原因としている。

なぜなら、有限者としての今生の〈我〉も〈梵〉の顕現であるからだ。臨済禅師が「すでに仏であるから仏になりようがない」と言うのはそういうことだ。〈梵〉は〈誰でもなく誰でもある〉からだ。それは、梵の一者的な性質というものが、一如であり、全てのモノを顕現している〈妙観察智〉と同時に、梵じしんの内にあって等しく、差異や区別を持たない〈平等性智〉ということである。

即ち〈一如〉であることから、〈一如〉から今生の自分を排除、否定することは〈一如〉を分割することになってしまうからである。例えば、娑婆世界の自分を苦に満ちた罪悪深重な今生と規定し、厳しい修行により極楽の来世にのみ価値を認めるような宗教観では〈悪無限〉たる輪廻に陥る。「すでに仏であるから仏になりようがない」ことをわかっていないからである。

〈有限者〉は甲→乙→丙→丁→戊→己→庚→申→壬→癸と永遠の〈梵〉に到達するべく彷徨うのだが、甲でもなく乙でもなく丙でもなく...という縁の無限に続くアポーハ〈排除〉によって、永遠に⇒梵とはならない。かくして〈梵〉は永劫にわたり彼岸にあるのだ。これが〈悪無限〉、即ち〈輪廻〉である。




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