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否定と出家

〈当為〉と〈制限〉のアウフヘーベン(止揚)により、人間の限界でもあり、また、最も自己認識と他者からの認識の一致した最終的な〈規定〉に到達する。これを〈否定〉という。つまり、人生がグズグズに煮詰まって、身動きの取れないが社会的には忙しい地点でもある。

スピノザによれば全ての規定は否定であり、あらゆる規定は存在の欠如である。規定により〈一者である神〉から自他の相対的な次元に転落し即ち非存在を示す。だから特定の規定をすれば、存在は有限化されるしかない。規定することは全体から切り取り役割を限定することであり、例えば、実際のところ自然は流転して諸行無常だが、木は木に、火は火に、土塊は土塊に、金属は金属に、水は水に概念だけ切り取りされ規定され五行という思想や、中医の体系ができるが、これは実際の木火土金水でなく規定であり抽出された概念である。よってこれら普遍の五行は存在はしていないのだ。

他者を自己ではないと限定、排除することにより、自己が自己として規定性を有する。即ち、世界や他人を見て「違うね!」と言うことにより自己を「私はこうである」と規定化し表明するのだ。自らの規定性はアポーハ(排除)された他者を根拠に持っており、即ち「牛」の規定を成しているのは「牛以外」からの〈否定〉なのである。人は、この〈否定〉において自らを〈有限者〉として自覚する。

しかし、ヘーゲルや沙門はここで〈否定〉の否定である、絶対否定というものをするのである。つまり、第一の否定である自己認識上の規定〈私はこういう人間である〉の否定である。規定をわかりやすく言ってみれば「俺はこういう性格の人間だから、こうするんだよ」という「らしさへのこだわり」または〈エゴ〉のことである。しかし、このエゴは、家族や会社などの他者や住んでいる世界への否定、排除、差異を根拠としているので、己が規定は他者の介在により造られたものなのだ。その規定が逆に自らをがんじがらめにする。なぜなら否定した他者が立ち現れるからである。仏教やヨーガの行者の世界ではここから一度、他者や世界から関係性を切り離し、造られた自分をリセットする、ということをする。これが本来の意味での〈出家〉である。

さて、出家への発心へのきっかけだが、ヘーゲル的には『他者における自己の止揚による自己回帰』と言う。わかりやすく言うと、我々が人生の中で、世界や他者というものが、在り様として不完全、寿命があり、さらに悪と苦しみに満ちていることを発見し、またそれにより形成された自己の有限を知ることから始まる。そのプロセスだが、伝説の釈尊四門出遊を見てみよう。

四門出遊は、釈迦が29歳の太子の時、王城の東西南北の四つの門から郊外に出掛け、東門で老人、南門で病人、西門で死者、北門で出家者に出会い、人生の苦しみを目のあたりにして、苦諦に対する目を開き、出家を決意した。

釈尊があっさり、王子としての自分を捨てたのは、彼の身分が周囲の親や家臣、シャカ族の共同体により形成されたものとして自覚したからに他ならない。老人と病人と死人とその苦しみを目の当たりにして、つまり世界の負の側面を目撃して、それの反映でもあった〈規定された自分〉の無常と待ちかまえる苦しみを自覚したのだ。

映画『ホーリーマウンテン』における聖山に登るために自分のマネキンを燃やす、ということが出家である。

さて、北門から出家すると、今までの他者や社会は切り離され、代わりの他者としてより〈無限〉や永遠のものを他者として設定する。それが〈神〉であり、〈一者〉であり、ブラフマンであり、または聖なる山や、聖なる河、または太陽や大地や、自然、地球、宇宙だったりする。神の概念について無記、つまり沈黙を貫いてきた原始仏教が、大乗仏教になってからにわかに、寿命が無限である久遠仏や、毘盧舎那仏無量寿仏を設定してしまうのは、そういう背景がある。即ち、出家時において不完全な世界、他者の反映である自己を揚棄して、真の自己に還帰する、そのプロセスにおいて、より無限性を持つ他者を措定するのである。

こうして、有限者は〈無限〉と対峙する段階へと進む。

 




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