ヘーゲル哲学では〈べし〉というものが登場しますが、これをヘーゲル哲学では〈当為〉(Sollen) といいます。つまり、自分の理想像と、世間から見た自分のギャップを埋めるための〈努力〉〈あがき〉が生じます。逆に言えばこの理想像に届かない場合、その限界を〈制限〉として認識します。
例えば、他者目線であるところの私、こいつモテないな、という認識は自己の限界内の規定における、おれはそこそこモテている、という認識と差異が生ずる。このうちモテてないと思われてるんだな、と失意のうちに自覚するのが〈制限〉であり、おれはもっとモテるはずだしモテるべし、と認識して努力するのが〈当為〉である。
このモテるを修行に置き換えると。「当為」は、あるべき姿である仏へと向かうそのための心のありようである発菩提心、すべきことである修行を表します。例えば、「仏は生存の原因となる欲望を持たない」という規定ですが、現実には欲望を皆さん持ってます、欲が出てしまっていて実際のところ罪悪深重の凡夫というのが〈制限〉です。そして、修行にあたり「すべし」という〈当為〉が大般若読誦や念誦、十八道や不動華水供や、大峰での奥駆けであり、「すべきではない」という「当為」を明文化したのが「戒律」です。
例えば、不遜ながら祖師たちを例に挙げさせていただきますと…
伝教大師は、遣唐使で国清寺に行き大乗戒と密教の伝授を受けたのは〈当為〉ですが、理趣釈経の伝授において弘法大師に断られてしまった時は〈制限〉を感じたのだと。智証大師においては密教伝授のための唐への渡航が〈当為〉であり、嵐にあい台湾に漂着したときに〈制限〉を感じたに違いありません。
親鸞聖人においては六角堂での修行に失敗した姿や、逆に佐貫で思わず修行してしまうところだった姿が〈制限〉された姿で、法然上人に偶い弟子になったことが〈当為〉。法然上人においては善導の観経疏により回心し念仏を広めていくのが〈当為〉、承元の法難が〈制限〉。日蓮大聖人においては南無法蓮華経の辻説法が〈当為〉であり龍ノ口法難、佐渡流罪が〈制限〉です。
ここで〈当為〉と〈制限〉が登場するまでのヘーゲル哲学の流れを追ってみましょう。
自己の有としての存在への根本疑問から他者に成りきり(向他有)、他者から自己への縁(関係性)を通して自分に振り戻され、自己としての〈現実〉を認識、構築していきます(即自有)。
この一種のこのメタ認知的な反省、認識により生じた自我〈私〉ですが、自他の境界線の此岸と彼岸ではやはり認識が違います。自分がこうだと規定している自己(規定性)と、他人から思われている自分の性質(ヘーゲルの言う性状)に差異が生じています。なので突合せ、すり合わせがここから起こり、〈現実〉によりフィットしたエゴ、つまり、自分の思う自分と他人の思う自分の一致した自己の規定が精神に生じますが、これを〈質〉と言います。しかしながら、〈質〉への変化には抵抗がもちろんのことあります。この自ら定めた自己の規定への執着がゆえに、他人から見た自分(性状)はあくまで他者目線だと、エゴは言い張るわけですね。この自ら定めた自己(理想)の規定への執着が、〈当為〉であり、そこに至らない現実の自分の姿が〈制限〉です。