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ヘーゲルと往還の相

前回のヘーゲルの向他有と変身については、有無の混合としての自己は、自ら無を含む故に自らを定有(dasein)として定義できず否定し、自己の有でもなく無でもない他有(他者)へ向かい、他存在に成りきることを向他有と呼ぶいうところまで書きました、また、他者に成り切るというのは変身に近いのではないか、ということもここで補足します。例えば親や先生に成り切ってしまい、その立場から自分を見る。その続きです。

思いきって清沢満之ふう(あくまで清沢風であり、獄鳥鳴説です)に読めば、他に向かう向他有のベクトルを往生の心理的衝動とも考えられます。つまり向他有は往相。

そうして、他者に成り切ることにより、かえって自己を再び構築し、維持していくことになる、なぜなら他者は自己なしにはあり得なく、この縁はコインの表裏のようなものだからです。他者から戻ってきて自己を維持するといういう側面が即自有である。(これも清沢の皮を被った獄鳥鳴の自説ですが、還相として自己に戻ってくるビジョンの、ある種の心理的雛形なのではないか、と思います。)

往生、絶対的彼岸の他者としての阿弥陀仏に向かい、仏凡一体となり仏と成り切るために必要なのが、他者との対話であり聞くということ、つまり仏法でいえば聞法であります。

厳しい修行環境においては最初、ほぼ自我の強固さは無く幼子のような状態です。他者の誓願、願い、願望を叶えようとする。他者の肯定における自己、他者の視点により自己を構築する状態です。例えば、阿弥陀佛の願力により信心決定した自己が構築されます。

この時期が長いと、この自己に固定されます。謂わば、親、先生、アイドル、ロックスター、カリスマ教祖、宗門、王権、国家、阿弥陀仏に成り切って一体化したままなんですね。ゲド戦記ではハイタカが鷹になったまま自らの〈真の名〉を忘れて戻れない、といった描写がありました。変身したまま戻れない魔法使いの弟子です。

そう言えば昔、矢沢永吉に成り切って、戻らない人がいました。




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