憑き物と変身では変身の方が強い-とのお言葉を先生から頂きました。
変身とは何か?ピーマンがナスになること、人が狼になること、狐が人になること、これらが変身です。らんま1/2では主人公の性別が変わります。
カフカの小説『変身』では
ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目ざめたとき、自分がベッドの上で一匹の巨大な毒虫に変ってしまっているのに気づいた…
このような描写があります。しかし実は、心理学的には誰でも起こっていることのようです。

所謂ヘーゲルが言うところの"向他有"です。これがどのようなプロセスで生じるか申しますと…仏教的に言うならば、生類は自らを"有無の混合"であると、衣の裏に縫い付けられた真珠のように、アプリオリ(先天的)に潜在意識でわかっているらしいんですね。
なので、"有は有のみにてもまだ存在しうる"としても、どこかで有は"疑わしい"という契機が起きる。お釈迦さまで言えば"四門出遊"時の疑問です。老病死に気づいてしまう。縁覚が飛花落葉もそうですが。無に気づく。そして考える、例えば…
有は無からアポーハ(排除)されて存在する。しかし、矛盾がある。無は知り得ず対象とできないので、アポーハ(排除)の対象ともなりえない。足場が無ければ"反対"という概念の脚では立てない。よくよく考えると有は成立しないではないか。
ヘーゲルは、規定され限界を持つ定有(あるもの)は他のものを排除する、と言っているが、ディグナーガ(陳那)のアポーハ論と極めて似ています。
人間は、この有への疑問が故に自らを"有る"と定められず、非有に向かいます。自らのうちに無を含むが故に、自分を有ると規定できずに、非有と定めるが、また逆にそれを考える私が有り、つまり明らかに有の側面が混じっているが故に、無いとも言えないので、自己として非有であり無でもない存在、すなわち"他者"に向かいます。
このことを"向他有"とヘーゲルは呼びますが、他者に向かって他者に成り切ってから、自分との関係を再構築しようとするらしいんですね。
私はこれと似たようなことを、金翅鳥院での講習会で、2人の先生がたから、それぞれの講習で聞きました。自分の周囲の人間やモノに成りきって、自分に言いたいことを言うというものでした。ヘーゲルほこれは自己の再興でもあり、他者に成りきることのうちでかえって自己を維持するもの、と言ってましたが。諸先生がたの授業から私はそのことを思い出しました。ゲシュタルトアプローチの講習会と、懺悔と調心法の講習会とまたアプローチの角度や処方箋は違うようですが、共通点もあり。
私の解釈では、問題はこの他者が、
①親になった場合
②異性のパートナーになった場合
③神仏になり賞罰が絡んでくる場合
に人生の多岐にわたり、心理的に激烈な作用を及ぼしているようでした。