有無の有無は有るか?
つまり
有無の区別というものは有るか無いか?
という謎々を創作したことがある。
区別はプラパンチャ(戯論)なので本質的には無い。しかし、
有無の区別が無いなら、無いと言えずに矛盾に陥る。
有無の区別が有るならば、有ると私がその有無を区別する前に、アプリオリ(先天的)にアポーハ、区別が有ることになる。なぜか有無の区別はほぼ先天的に脳に備わっている。別に「私」が規定する前からそうだよね、ということ。
区別という以上「あるもの」と「他のもの」の相互の関係が前提とされる。この関係を仏教的には「縁」と言います。
この区別ですが、有が有である、無が無である、このように限定された物事をヘーゲル哲学で「規定」と言います。
ところが人間のみならず、あらゆる生類を考えたとき、有るはずの存在には必ず「死」があり、有は無に移行していきます。これが消滅。
そしてこの宇宙や惑星を含めて、あらゆる生類は無から突然、誕生します。この「生」により、無は有に移行していきます。これが発生。
有から無への移行、無から有への移行、それぞれの反対の運動があり、その運動である発生と消滅が核反応のようにバチバチと起こっており、その中でお互いを打ち消し合っている。この仮定でヘーゲルの言うアウフヘーベン(止揚)が起きます。
発生と消滅の核反応のような燃焼爆発の過程「成」と呼び、その結果、「沈殿して静止した」状態が我々、生類という存在であり、ヘーゲルはそれを「定有」と読んでいます。
我々、生類は生・滅の混合からなります。
縁覚が飛花落葉によって悟るのは、樹木を含めた全ての存在が、有と無の混合であることを悟ったからだろう、と私は勝手に推測してます。