昨日、紫微斗数の講座後、師僧と車でホームセンターに買い物していたのだが、駐車場は日曜日ということもあり、凄まじく混んでいた。空いているところを見つけ、先生とそこに停めよう、となり、そこのスペースに停めようとしたところ、「オーイッ、オイッ、コラッ、テメェッ、オイッ」と外から誰かが声を荒げていた。
最初気づかなかったがちょうど真後ろに、黒いベンツv220d のワゴンが停っている。後ろをバカーンと開けているが、ホームセンターで買ったものを積み込みたそうなヤンキーがこちらにツカツカ近づいてきて「閉めれないだろがコラテメェくぁwせdrftgyふじこlp!」と何を言ってるかわからんが怒鳴ってきた。とりあえず私のほうのドアを開けて、師僧の安全を確認しつつ、応対した。この場合、師僧の安全が第一となる。ベンツの相手はこちらが軽自動車と見て舐めてかかっているようだ。
しかし、いざ車から出てきた私の風体も茶色の作務衣で髪がボサボサ、ちょっと宗教の変な人の雰囲気を醸しだしていたためか、相手の勢いが止まった。その一瞬の空白に、私から「じゃあ早くしてくださいよ」と言って、少しだけ車を前進してあげた。相手はチッと舌打ちして自分の車に戻って行った。最後まで態度の悪かったこのベンツのヤンキーは聖天行者の御一行に怒鳴ってしまったわけだから、霊的にただではすまないだろうな、とも思った。ただいろいろ問題提起にはなった。
法華経の勧持品に「諸の無智の人の 悪口罵詈等し 及び刀杖を加うる者有らん」とありますが、まさに予言通りである。僧兵の必要性を感じる。格闘技を練習をしたほうがよいのだろうか?兄弟子らは皆さま武道や格闘技の有段者である。かくいう私も昔、洗足池にあった和術慧舟會の道場に数年間通っていた。プロ相手の実験台でよくスパー相手になっていたので、極められ慣れ、殴られ慣れているので、いざとなれば師匠の代わりに殴られるくらいの覚悟ではいた。しかし、この問題は難しい。逆に手を出してしまったらどうだろうか。例えば、私がやってたのはブラジリアン柔術ベースのものだが、こちらがタックルをアスファルトで仕掛けて、相手が受け身をとれなかったら大怪我、後頭部からイッたら死ぬ。逆に相手が刃物を持っていた場合、こちらが死ぬ可能性もある。また、僧侶が乱闘、傷害、過失致死になってしまう。報道されたらえらいことである。とは考えてもそういう時は理屈ではなく、感情が迸ってますからね、制御は難しい。今回の私の「じゃあ後ろ詰まってるんだし早くしなよ」という言葉も怒りによるものだ。しかし、感情の制御しておとなしくするのみが善なのか?
大般涅槃経によれば
「仏のたまわく、迦葉よく正法を護持する因縁を以ての故に、是の金剛身を成就することを得たり。善男子、正法を護持せん者は、五戒を受けず、威儀を修せずして、応に刀剣・弓箭・鉾槊を持すべし」
摩訶迦葉は正法を護持していると、金剛身を成就するほど鍛錬せねばならなかった。つまり、それほど襲ってくる外道や悪口罵詈等し 及び刀杖を加うる無知の群衆が多かったのだろう。では、これ襲ってくる者たちが他国の兵、他の外道宗教に属する勢力や、赤い勢力や、凱旋右翼や、不良だったらどうなるのか?相手や自分の大怪我や死を折り込んで戦ってもよいのだろうか?
私は今回のように師僧や仏法を護るケースにおいては、よいと思うのだ。なぜなら大般若理趣分を読誦しているから。理趣分にはこうある。
仏、是の如く衆悪を調伏する般若の理趣、普勝の法を説きおわりて、金剛手菩薩等に告げて言わく、「若し是の如きの般若波羅蜜多甚深の理趣を聞くことを得て、信解受持し、読誦修習するもの有らば、たとえ三界所摂の一切の有情を殺害すとも、しかもこれに由りて復た地獄傍生鬼界に堕せず、能く一切の煩悩および隨煩悩悪業等を調伏するを以っての故に、常に善趣に生じて、勝妙の楽をうけて、諸の菩薩摩訶薩の行を修して、疾やかに無上正等菩提を証せん。」
『佛說如是調伏眾惡般若理趣普勝法已。告金剛手菩薩等言。若有得聞如是般若波羅蜜多甚深理趣。信解受持讀誦修習。假使殺害三界所攝一切有情。而不由斯復墮於地獄傍生鬼界。以能調伏一切煩惱及隨煩惱惡業等故。常生善趣受勝妙樂。修諸菩薩摩訶薩行。疾證無上正等菩提』
つまり、理趣分はこのような仏教徒が死活問題に直面した場合の、死人が出ることを想定した闘争を是認しているのである。チベットはここの部分において大人しすぎたために滅んだとも言える。日本において仏教教団は、根来衆や雑賀衆、一向一揆、石山本願寺、比叡山の僧兵による強訴と、戦ってきた実績があるのだ。