
人の魂を対象とする時、その人の生前と死後の無や、転生前、転生後の心身の違う存在を含むことになる。この指定したその人という枠に有無や他状態が同居してしまうことは量子力学のシュレディンガーの猫でも問題にされる。シュレーディンガーの猫は、量子力学における観測の役割を示すための思考実験である、猫にとっては残酷な実験だが、箱の中に猫と、50%の確率で毒ガスが出るかどうかの仕組みが入っており、観測するまで猫が生きているか死んでいるかの状態が同時に存在している、という説である。前世や来世の私は無なのか重なって存在しているのか、ということを考える時、私はこの説を思い出す。
バラモン思想に見られる、アートマンは極小の粒子や量子のようでもある。常住の変化しない極小の主体のモデルがアートマンであった。ガネーシャは鼠に乗っているが、これは宇宙は量子に乗っている、極大は極小であり、ブラフマンはアートマンであるという、梵我一如を表している。アートマンは幾千もの転生を繰り返す量子的な主体とされるが、これは輪廻により生前、死後は違う存在形態の衆生に転生するという矛盾を抱える。我が様々な転生してきた存在の重なった状態となるのだ。輪廻転生そのものが極めて量子力学的である。
肉体の形(色)に依らないとしても、経験値や生前の思考や感情の情報(名)はどうなるのか。アートマンに付随しないのか?そうでなくては転生仏や私はどこそこに生まれていたというヨガマスターはおかしなことになる。
仏教の影響を受けたシャンカラはこれら名色の情報はアートマンに付託(上に置く、付箋で貼るといった意味)されたものであり、それらが混在して見分けられないことを〈無明〉とした。修行により明智が生じることにより、付託を見分けられるようになれば無明が晴れ、アートマンはブラフマンと合一し完全なる永遠となり、不二一元の神に帰っていく。仏教的文脈における無余涅槃、煩悩も肉体も完全に滅し尽くして完全消滅といった文脈はない。
アートマンに関して言えば、ダルマキールティが帰謬法で批判して言うように、常住の、永遠に変化しないものは原因にも結果にもなりえない。アートマンに目覚めた人たちにとって、世界が存在しないという言葉はここから来ているのか、永遠不変からすれば原因も結果ともなりえないので、変化するこの現象世界は無い、発生してないとなるのだ。ただ細かいところを言えば、シャンカラの言う世界が発生してないマーヤである、というのと、ナーガルジュナやダルマキールティなど大乗仏教の祖師たちの言う世界は空である、というのは言っている結果的に見れば何となく同じだが、そこに至るルートはかなり違うようにも思える。