刹那滅について
〉羽田談
『大乗仏教では刹那の単位の存在はあるとはしない。とらえられぬことによりこの宇宙の無を認識する。大乗では認識論的にとらえ、上座部のいうように刹那に生起し消滅するという宇宙論の考えとはいささか違う。基本的に色、受、想、行、識のうえで認識できない存在は仮定しないのが大乗の考え方であると思う。』
羽田先生から教えていただきましたので、もう少し詳しく調べてみました。
仏教の時間論は、まだ部派仏教の時代、説一切有部や経量部のころから刹那滅論が議論されていた。釈尊の説いた言葉をもとに、世界を把握しようとしたのだと思う。
説一切有部の考えでは、これ以上分割できない世界構成要素(75法)が縁起によって因果関係を結び、刹那の一瞬だけ存在を構成する。唯物論や物理学に近い考え方だろう。現代科学の時間の最小単位は1プランク秒で、10のマイナス23乗秒である。
刹那は1/75秒とされている。世界は一刹那の間に生成消滅(生・住・異・滅)を繰り返す連続体とされる。なんというかデジタルなものだ。
瞬間ごとに生起、消滅するから、永続する単一の自我(アートマン)は存在しないという考え方。この刹那、一瞬のうちに生滅する諸存在の連続体を、この宇宙とするわけである。これが刹那滅である。縁起している諸存在は刹那ごとに生滅するので、恒常的な我はありえず無我であり、縁起している現象(サンスカーラ)、つまり諸行は無常とする。
しかし、存在を構成する法(要素)は非存在とはされないので、実有とした。時間も知識の対象となる限り存在する、つまり、過去、現在、未来と三世にわたって実有とされた。つまり、世界の生起とは、存在を構成する法が未来から現在に現れ出ることであり、消滅は現在から過去へ去ることである。つまり、説一切有部の考え方だと時間は未来から過去へ流れているのだ。現代人は過去から未来へ時間が流れているとするけれども。
説一切有部のこの考えは仏教時間論のベースとなったものの、後に小乗、大乗両方から様々な批判をされた。まとめると、
①龍樹は空の思想の立場から、中論において〈去るものは去らない〉説を説いて批判した。
②世親は小乗の経量部の立場から刹那滅を説いた。現在においてのみ法有を認め、過去未来は存在しないと説いた。
③ダルマキールティはそれらの教えを発展させて唯識を説いた。また、刹那の後に滅する原因がどこにあるのかを主軸に刹那滅論を表して批判した。唯識になってくると観察者がどの世界の存在かにより、時間の経過が違ってくるという説が出てくる。違ってくるのは時間だけでない、有名な、「人が現世で見る清浄な川と餓鬼が見るマグマの川」の話しで唯識の考え方の発展した方向はわかると思う。
④ 日本において時間論を1番説いているのは道元禅師である。道元禅師は『正法眼蔵』発菩提心の巻で、『もし如来の正法眼蔵涅槃妙心をあきらむるがごときは(明らかにしたならば)、かならずこの刹那生滅の道理を信ずるなり』と説かれている。曹洞宗における、いや日本の禅における「今ここ」「今しか無い」は、現在においてのみ刹那の法有を認め、過去未来は存在しないとする経量部の考え方、もしくは世親の刹那滅論が色濃い。なにせ道元禅師 は9歳にして世親の「倶舎論」を読んでいるのだ。世親の影響はすごくあっただろう。有名な『前後裁断』というパワーワードは過去未来を裁断する、という考え方である。
次回以降、それぞれ掘り下げていこうかと思う。
※因みに、ボルツマン脳理論だと現在この瞬間に宇宙を想起できる脳が発生し、人間の記憶はじつは偽記憶であり、刹那後には脳と夢見る物理宇宙ごと消滅している。この発想はどちらかといえば経量部のもので、過去未来の前後を裁断している。説一切有部のように三世を実有として見做す仮説は、ボルツマン脳理論の変形でソフトボルツマン脳理論と呼ばれている。