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〈仮諦〉 仮名vsスポータ

〈仮名〉とは概念のこと。サンスクリット語では「プラジュナプティ」(prajñapti)。施設、仮設とも言う。仮に形成されたものを意味する。概念の火は燃えて炭にならないし、薪を必要としない。辞書に載っている「火」は全く熱くない、本質を欠いていて空です。たまたま人間社会の約束事で、対象の代理記号としてそのような言葉になっている。これが仮名です。

対比してわかりやすいのがヴェーダの思想において重要な役割を持つ〈スポータ〉というものです。〈スポータ〉と〈仮名〉は対立した考え方です。パタンジャリやバルトリハリのような古代インドのヴェーダ文法学者は意味を伝達する言葉の本体としてスポータ(つぼみ)というものを想定していました。それが音声によって花開くとされたのですね。これが語常住論であります。このスポータは常住で神聖な言霊であり、ブラフマンと同一であるとされました。ゲド戦記に出てくる〈真の名〉の概念に近い印象を受けました。言葉そのものに魔力が宿る、という思想ですね。

一方で〈仮名〉は、行(サンスカーラ)を原因として発生します。薪と炭という質料のある因果から切り離されてますが、代わりに行、つまり「概念的形成作用」から発生してます。 saṃskāra は「形成する」です。つまり、この概念的に形成されたものは〈言葉〉となる。だからサンスクリット語というのですね。

人はこの仮名(概念)を認識内形象に貼り付け、記憶して無意識に仕舞い込みます。想蘊にあって認識内形象と仮名が縁あって結びつく。ただし、仮名は認識のために仮に設定された付箋のようなものなので、スポータのように常ではないです。また本質的に存在すらしてないので断滅もしません。これは中道の導入部分ですね。

〈因縁所生法 我説即是空

縁起、それをわれわれは空と呼ぶ。

〈yaḣ pratītyasamutpādaḣ śūnyatāṁ tāṁ pracak̇smahe/ 〉

〈亦為是仮名 亦是中道義〉

それは[因に]依っての表示〈仮名〉であり、それこそが中道である。

〈sā prajñaptir upādāya pratipat saiva madhyamā//〉

空諦に関する前段を次いで、後段で〈prajñaptir〉(仮名)とありますが、現代で日本や中国で流布している三諦の解説テキストですと、〈自性〉を否定してその代理として補完された〈縁起〉もまた〈仮名〉であり、それは仮に設けられたものであるので空じろと。さらに、すべての存在や事象は縁起だなんて概念を貼っつけなくても真実の相を示しているのだ、それを中道とという説が一般的です。また、ひどいのになると中道と中庸と勘違いしてるテキストもあったりします。中村元先生ら仏教学者はこのような格義仏教的な説には否定的です。個人的には自性空だから縁起なのになぜか縁起空になってしまってるのと。縁起を空じたら論理的には自性が復活してしまう危険があるんではないかと気になってます。

さて、龍樹はバラモン教(とくにニヤーヤ学派)だけでなく、同じ仏教の説一切有部とも論争を繰り広げました。説一切有部は〈有部〉の名前のとおり、現象世界を構成する要素(五位七十五法)は三世に常住なものとしました。しかし、このような構成要素としての自性は龍樹により否定され、空の思想に基づいて解釈し作り直されたのが唯識の五位百法です。こちらについては長くなるので、またいつか機会ありましたら書きます。




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