『前後際断』という禅語がある。ようは普遍的な概念、言語を否定していると思うんですよ。
例えば、言霊思想とかゲド戦記に出てくるような〈真の名〉を唱えると実物が出てくる、というのが《普遍》です。普遍の形而上のものが言霊に対応していると。普遍的または形而上のLogosには照応する真の言葉(真言)があるという。この真言は天がそれぞれに与えた名前である。バラモン教の考えは、名は体を表す、各存在に真言、真の名前があるという思想です。だから、祈りの言葉には呪力があり、呪力が増すと供養した者は祝福されます。
しかし実は、仏教の思想はこの考えと反対で、ディグナーガからダルマキールティまで、アポーハ(排除)という考え方で、クマーリラを筆頭とするバラモンの《普遍と言葉》という考えかたと論戦を繰り返してきた。
《牛》という概念は、牛以外の全ての概念を排除して概念上で成立したものを感覚と連結して、牛という存在がかろうじて成り立っているというのがアポーハという考え。よって《牛》は実在してない。空である。
概念の牛はステーキにならないし、乳搾りもできません。
ようは、辞書に出てくる《火》という言葉、もしくはそこから心内に想起される《火》から実際のところ暖は取れない、ということなんです。
辞書に載っている火は全く熱くない。
概念は過去や未来、原因と結果を切り取った、今の状態のみ。前後裁断された代物であり、実は存在してません。空です。
ディグナーガ(陳那)からダルマキールティ(法称)に至る法統の考えです。
しかし、天才バラモンのクマーリラは《牛以外》、というものは一周回って最初に《牛》がいないと成り立たないじゃないか、と論破して、いったんディグナーガは破れてしまう。そこから孫弟子ダルマキールティのリベンジが始まるわけです。(続く)
訳)大家知道《前后切断》这个禅语吗?我觉得这禅语是否定普遍的概念和语言。
比如说,真言,言灵,或者科幻奇幻作家《厄休拉·勒古恩》在《地海传说》中表现的想法是所有的东西有各个真的名字,这样的想法。普遍或者形而上的Logos相关跟真言,这的真言是上天给各个取的名儿。婆罗门教的想法是各个普遍概念带真言,真的名字,所以祈祷的语言具有咒力,咒力增大可以使善人得福。但是佛教的想法是反对这个想法,从"陳那"到"法称",以阿波哈(排除)的想法,反复与Kumārila他们婆罗门教的《普遍性概念》的想法进行辩论。
但是,佛家想没有这样普遍的Logos,而且名字和意思是《排除》其他的所有的以外的概念才可以出来了。这是阿波哈(排除)的想法
比如说《牛》的概念是否定牛以外的所有的东西的概念,而且连接着语言。但是《牛的概念》应该是没有的,《牛》这个语言是假的,被设计的,因为这概念也没有,是空。
其实牛的概念是空的,因此这个牛不能杀,不能做牛排,不能吃。而且不会挤牛奶。
在词典上的《火》,或者从这个单词想出来的心里的东西,这个火一点也不热。
概念是切断前后,切断因果,只有正在,被前后切断的东西,其实不能存在,是空的。
但是,天才婆罗门的"Kumārila "反驳说请想一想转一圈,应该《牛以外》是从头开始没有《牛》就不能成立。因此"陳那"被"Kumārila "被打败了。孙子弟子"法称"的复仇从那里开始。(继续)