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白寿の祝い

 人生50年と言われていた頃は、百歳と言えば「へーよく長生きしたものだな」と稀な例外が現れたように驚かされたものであったが、今では「百歳過ぎの老人は」と纏めて言われる如く、もう珍しくもなく、当たり前のように扱われるようになった。

 近くを見ても、百何歳で亡くなりましたと言った挨拶状が来たかと思うと、一緒にクロッキーの集まりに来ていたお婆さんも百六歳まで元気で出席してられた。もっと身近でも、姉が来年の3月には満百歳を迎える。

 そんなことより、来年の正月には私に「白寿だからお祝いをする」との案内状が届いた。百の漢字の上の横棒の一を取れば白になるので、九十九歳を白寿と言うのである。本当はまだ九十七歳なのだが、こう言う祝い事は、昔からのしきたりで、数え年で言うのが普通なので、こういうことになるらしい。もう百歳か、よくも長く、ここまで生きて来たものだと我ながら感心する。

 私は、敗戦の時、まだ十七歳だったが、大日本帝国海軍海軍兵学校の最後の生徒だった。飛行機も軍艦もほぼ全て無くしてしまった海軍は、もう本土決戦で、陸戦で戦うよりなかった。お国のために天皇陛下のために、爆薬を抱えて敵戦車のキャタピラーの下に飛び込んで死のうと本当に思っていた。戦争が半年も長く続いていたら、ほぼ確実に死んでいたであろう。

 ところが日本の敗戦により、突然、大日本帝国から放り出され、命は助かったが、今度は突然、それまでの自分の全て(精神的なものから生活まで)を失い、行くあてもなく、頼るものもなく、どうして生きていけば良いかもわからず、やがては虚無の世界に陥り、生きる意味まで失い、当時の多くの人に倣って死を覚悟したものであった。十八歳か十九歳の時だった。

 ただ虚脱状態が続く中で、虚無の心は消えず、勉強をする気にもなれず、ただ国に不信を抱いたまま、茫然と生きていた。それがいつ頃まで続いていたであろうか。そこから先の長い間に、何とかそれを乗り越えて、よくぞここまで生きて来たものかと不思議に思うぐらいである。

 その先の人生にもいろいろあったが、あの衝撃的で悲惨だった時代のことは今も忘れられない。つい昨日のことのように感じるが、もう80年も昔のことになってしまい、私も白寿ということらしい。本当に長く生きて来たものである。




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