私が小学校時代を過ごしたのは昭和10年(1935年)4月から昭和16年3月までであった。一年生の時は西宮市の建石小学校で、昭和9年の室戸台風の時の津波が来た時の高さが建物に記されていて、自分の背丈より高い120センチだったのに驚かされ、恐怖を感じたものであった。
2年生、3年生は、大阪府の箕面小学校。次いで、親の転勤で4年、5年は東京の当時は芝区の白金小学校で、6年生の時は、また箕面小学校に戻ったのであった。箕面小学校の時に、日中戦争(支那事変)が始まり、小学生たちが駅のホームに並んで、一斉に日の丸の小旗を振って出征兵士を見送ったものであった。
次第に戦時色が強くなっていく時期で、消火訓練や国防婦人会、隣組が出来、教育勅語や皇統124代の暗記をさせられたりしたものであった。帰国した兵士たちが戦地の自慢話を子供にまで聞かせ、おかげで、「クーニャン・ライ・ライ」などという半端な中国語を覚えたものだった。
そんな中で「アカは怖いよ、気をつけなさい、近づいたらダメよ」と子供にまで言われていた。どこやらの子供が兄の借りた本を代わりに友達の家に返しに行っただけで、アカではないかと警察に捕まったという様な話も聞かされた。アカというものがどういうものかも分からず、何か秘密の悪党だという感じを持たされたものであった。
学校では、日本の人口は7千万で、毎年2百万人生まれて百万人死に、百万人づつ増えていた。国が栄えるには人口が増えることが必要で、「産めよ増やせよ地に満ちよ」と言わんばかりであった。ところが一方では、地球儀の日本を指して、こんな小さな国に7千万もの人間が住めるわけがないだろう。だから、人々は満蒙開拓団や南米などに出て行かねばならないのだとも言われた。
地球儀を見せられて、大きな大陸があり、大きな国も沢山あるのに、太平洋の大きな海の端に小さな赤く塗った日本列島があり、これだけ色々な国のある中でよくぞ、この日本に生まれたものだ、感謝して誇りに思えと言われても、何故こんな小さな島国に生まれたことが幸せだったのかわからなかった。赤く塗ってあるから、何か特別なのかなあと疑問に思ったものであった。
当時の天皇は神様であり別世界のことであったが、始終、教育勅語などを聞かされ、その度に「朕惟うに・・」と出てくるが子供にとっては何のことかわからない、字が違うが、「オモウ」というから「思う」のことだろうとはわかるが、「チン」などと天皇は変なことを言うものだなと感じたものだった。それなら皇后は「マン思う」とでも言うのかなと、ヒソヒソ話をしたものであった。
また、ちょうど昭和15年に紀元2600年記念の式典が大々的に行われ。日本の国の始めが大きく報じられていたが、日本の古代史ではっきりしているのは、どれを見ても、始まりは四世紀から五世紀のことになっている。西暦と皇紀の差は660年で、16代仁徳天皇が西暦四世紀末ぐらいと言うことになれば、神武天皇が皇紀2600年の始まりとすると、おおよそ千年近くも年代差があることになる。その差が不思議でならなかった。
そこで、これはもう中学生になってからのことだったかも知れないが、ある時、歴史の先生にそのことを尋ねたことがあった。歴史の先生もきっと困ったのであろう、答えは神武天皇やその後の綏靖、安寧天皇などの始めの頃の天皇の名前は一代の名前ではなく、何代も続けて、同じ神武天皇や綏靖天皇を名乗っていたのでは?と言う返事であった。
完全には納得出来なかったが、歴史の先生の言うことだから、そんなのこともあったのだろうかと、自分に言い聞かせて、ケリをつけたものであった。
また東京と大阪を行き来したので面白いこともあった。東京へ行った時、先生が枚方のことを「マイカタ・マイカタ」と言っていたかと思うと、大阪へ帰ると五反田のことを先生が「ゴハンだ、ゴハンだ」と言うので、思わず吹き出しそうになったことを覚えている。
僅か2年でも子供はすぐその土地の言葉に慣れるもので、大阪へ帰ってきた時、クラスで「食べていいよ」と言って、皆に笑われたこともあった。大阪では「食べてええよ」とでも言うところであろうが、わずか2年でも子供はすぐ土地に慣れてしまうものだなあと感心させられたこともあった。