”八月や六日九日十五日” 朝日新聞の川柳欄で見つけたものだが、私ばかりではなく、戦争を経験した人の八月は、お盆もあるし、今でもこのように敗戦の年を思い出されるのではないでしょうか。
六日には広島への、九日には長崎への原爆投下。そして、15日の天皇の詔勅による敗戦。疲労困憊の暑い夏、踏ん張っていた体が一度になよなよと崩れ落ちた衝撃は今も忘れられない。朝日歌壇の和歌や俳句の投稿も、戦後、年月が経っても、夏が来ると、戦争に関するものが増える現象がずっと続いて来たようである。
敗戦当時、私は海軍兵学校にいたが、7月末の呉の空襲で、近くにいた日本の軍艦はあらかた沈められ、海軍なのに、最後の決戦と言われた本土決戦に向けて、米軍との地上戦の訓練ばかりさせられており、どう見ても勝てそうにはなかった。それでも、天皇陛下のため、皇国、神国を守るためには 死を賭して戦うよりないと覚悟していた。
そんな時、8月6日午前8時過ぎ、自習室の窓ガラスが突然「ピカッ」と光った。何だろうと思っていたら、それに続いて「ドーン」という地響き、「それ空襲だ」というので校庭へ飛び出した時に見たのが、あの原子雲であった。
当初は新型爆弾と言われ、今度来たらこれを被って逃げろと皆に渡されたのは、目だけ開けた頭からすっぽり被る、真っ白な大きな袋で、閃光から顔を守ろうというものであった。やがて、原子爆弾と分かり、日本も研究していたが、間に合わなかったなどと負け惜しみも聞かれたが、惨状が明らかになるに連れ、最早対策の立てようもなかった。
それでも、天佑神助、神国不滅、神風が吹くなどの最後の足掻きの果て、15日の天皇の録音放送となった。雑音が強くて聞き取りにくかったが、校長が「我々の時代には、どうにも言い訳もし難い大きな過ちを犯してしまった。君らの時代には、何とかしてこれを取り返して欲しい」というような訓示を垂れた。蝉がしきりに鳴いていたのが忘れられない。
それでも、血気盛んな兵学校生徒たちである。「帝国海軍はあくまでも戦うぞ、貴様らは最寄りの特攻基地へ行け」と檄を飛ばす一号生徒(最上級生)もいたが、大きな騒ぎにもならず、兵学校は閉校、生徒たちの帰郷が始まった。
生徒たちはカッターに乗り曳航されて宇品まで行き、そこから右に比治山の見える焼け跡の広島を縦断して広島駅まで行き、無蓋貨車に乗せられて、それぞれ故郷まで送り返されたのであった。広島は完全に焼け落ち、どこかで燐の燃えるような匂いが漂い、「赤痢が流行っている。生水飲むな」と書かれた紙を、燃え残った金棒に括り付けられているのが見られたし、全身紅白の斑点だらけの二人が助け合って、彷徨い歩いているのが見られたりした。
大阪へ帰り着いて、生駒野山を目にした時思わず「国破れて山河あり」との諺が浮かんだことが忘れられない。