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アメリカと私(2)鬼畜米英

 1941年12月8日の朝、軍艦マーチに続き「大本営発表大本営発表、本日未明、帝國陸海軍は西太平洋上にて米英両国と戦闘状態に入れり」というラジオ放送は今でもよく覚えている。いよいよ来るべきものが来たなと、身震いしたものであった。

 開戦当初は真珠湾攻撃マレー半島上陸、シンガポール占領など、連戦連勝、景気の良い話ばかりで、やがて大東亜共栄圏も造られるのではないかとさえ考えられたが、やがて、どうもミッドウエイ海戦では大敗を喫したらしいという噂が飛び、アメリカ艦隊が日本に近付いて来て、本土の空襲なども起こり、戦争に次第に深入りしていった。

 それに合わせて国内の戦時体制も次第に厳しくなり、外でも、アツツ島の「玉砕」をはじめとして、あちこちで「玉砕」や「転進」が報じられる様になり、どう見ても、日本に不利な戦況が続いて来た。出征兵士や戦没者の遺骨の帰郷も多くなり、やがては中学校へも、予科練をはじめとする軍学校などへの生徒の割り当てがくる様になり、中学3年の夏からは授業を切り上げて、空襲に備えての貯水槽掘りに動員され、4年になると、もう授業は全面停止、生徒は全員揃って工場に動員されることとなった。

 私の行った工場は飛行機の燃料タンクを作っている所だったが、機械でプレスした型がそのままでは少し寸法が合わず、アルミ製なので、角を少し叩いて整形する現場だった。少し技能を要する作業だったためか、殆どの工程は正規の工員がこなし、学生に出来ることは限られていたので、半分手持ち無沙汰で困るぐらいであった。戦況は切迫しているのに、こんなことで勝てるのかなと思ったのであった。

 陸海軍共に兵士の充足を競い、4年の夏には海軍兵学校の入学試験があった。戦争はいつまでも続きそうだし、いずれ軍人になるのなら、陸軍より格好の良い海軍の方が良いのではないかと思い、親には内緒で受験したら合格した。これでどうなるのか分からなかったが、もうとにかく国のため、天皇陛下のために戦って死ぬのだと思ったものであった。

 翌年の4月から兵学校へ行き、朝から晩まで通常の学科や訓練を受けたが、もう当時は日本中の制空権をアメリカに握られていた様なもので、乗艦実習と言っても、夜陰に紛れて一晩のみで、カッターや水泳では鍛えられたが、最後の方では、海軍なのに、もう本土決戦に備えた陸戦の訓練ばかりということになった。

 負け戦が続く程に「鬼畜米英、撃ちてし止まん」という声が強くなっていったが、最早態勢はどうすることも出来なかった。沖縄戦が敗北してからは、「本土決戦、本土決戦、最後の決戦」だと言われる様になったが、日本が勝つと言うなら、最後の決戦は日本軍がアメリカ本土に攻め入ってからのことなのに、変なことを言うものだなあと思ったこともあった。封入した毒ガスのサンプルを見せられたこともあり、もし本土決戦があれば、当然毒ガスも使われていたことであろうと思われる。

 そう言ったところへ、7月終わりの呉大空襲で、重油がないので動けず、島蔭に隠れていた軍艦は殆ど沈められ、日本の制空権もアメリカに握られており、「松の木が枯れて航空母艦が姿を現した」といったビラを撒かれたこともあった。

 こうして、やがて8月15日の玉音放送となったわけである。暑い日で蝉がやたらと鳴いていた。校長が「私たちは取り返しのつかない重大な誤ちを起こしてしまった。今は玉音に従うよりないが、君たちはいつの日にか、この無念を晴らして欲しい」と言う様なことを述べた。

 それでも夜になって分隊の部屋に戻れば、日本刀を抜いて、「帝国海軍はあくまで戦うぞ。貴様たちは国へ帰っても、最寄りの特攻基地へ行け」と息巻く上級生もいた。しかし、どうにもならないからか、次第に落ち着き、8月末には兵学校も解散、生徒達はカッターに分乗して曳航され、原爆の後の広島の惨状を見て、貨物列車でそれぞれの故郷に送り返されたのであった。




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