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闇市と浮浪児

 朝日新聞にこのところ戦後の闇市や浮浪児のことがシリーズで載っていた。アメリカの空襲で家を焼かれ、親も失い、取り残された子供達が、誰にも頼れず、自分たちだけで生きていたのが、浮浪児たちであった。今も語り継がれる、上野の地下道をはじめとし、戦後の全国の都市に浮浪児がいたのであった。

 かろうじて消失を免れた我が家は天王寺駅のすぐそばにあったが、大阪でも、天王寺駅前広場には戦後闇市が開かれ、それに群がるヤクザや闇屋、特攻帰り、傷痍軍人、浮浪人、失業者などに混じって浮浪児も大勢いた。売り手も買い手も皆戦争被害者で、流通機構も崩壊していたので、全てを失って、ただ街を彷徨くことぐらいしか出来なかった庶民が生きるために自然に集まって来て出来たのが闇市であったのではなかろうか。

 駅前広場の闇市では、その場で揚げている「揚げまんじゅうはいかがですか」という声が響き、雑然とした古物や古着などを始め、あらゆる物の出店が並び、コッペパン一つだけを持って売っている女性や子供たちも道路側に並んでいた。戦争中抑圧されていた”いわゆる第三国人”もいたし、場所代と称して金を巻き上げるヤクザもおり、喧嘩や窃盗なども繰り返されていた。警察官などの姿は先ず見られなかった。

パンパンと言われた娼婦たちも戦争で夫を奪われた寡婦たちが多かったであろうし、浮浪児たちも薄汚れたボロシャツを着て靴磨きをしたり、走り使いをしたりして必死に生きていた。

 占領軍のジープが止まれば、子供達が集まり、チュコレートを貰ったりしていたが、浮浪児たちはそれを食べるのではなく、闇市のおばさんに渡して雑炊を貰うのであった。国も流石に浮浪児を放置しておくことも出來ないので、時々「刈り込み」があり、浮浪児達を捕まえて車に放り込み、何処かへ連れて行っていた。

 連れて行かれた先で暖かく迎えてくれるなら良いが、食事もろくに与えられない監禁状態では、子供達は隙を見て逃げ出すしかなかった。噂はすぐ広がるもので、浮浪児たちは刈り込みを避けるために必死で逃げていた。闇市のおばさんに売り場の下に匿ってもらった現場を見たこともあった。

 そんな現場を見ていたこともあり、戦後時間が経ってあの浮浪児たちはどうなったのだろうかという思いがあったので、新聞の記事に思わず引き寄せられて、赤線まで引いて隅から隅まで読ませて貰った。

 何とか生き残った浮浪児たちはその後どうなったのであろうか。戦後八十年の間には、もう殆ど皆死んでしまったことだろうが、悲惨な運命に翻弄されながら、機能しなくなった社会の底に放り込まれても逞しく生き抜いた浮浪児たちのことは忘れることが出来ない。

 戦争で儲ける輩がいる反面、犠牲にされるのは、先ずは貧しい庶民たちであり、弱い女性や子供たちである、戦争は絶対にするべきではない。




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