今年九十七歳になる私は、昨年の暮には早々に年賀状を出したものの果たして正月を迎えられるかしらという不安がよぎることもあったが、正月はおろか、寒い冬も乗り越えて、いつしか春になってしまった。
3月にはまたアメリカから孫たちがやってきて楽しいひと時を送ることも出來たし、もう今年は見れないかもと思っていた桜も見ることが出来た。
老人にとっての春の到来は、単に寒い冬を乗り越えて暖かくなり、百花繚乱、光に満ちた春を迎えたというだけではなく、生きている喜びを感じ、胸いっぱいに新鮮な春の空気を吸い込める喜びでもある。それにどこへ行っても桜である。
私にとっては、桜は戦争と強く結びついてしまっているが、今やそれを超えて、春の象徴であり喜びである。毎年花の咲くのを待ち、短い花の命を愛でないではおれない。三分咲きから、五分、満開と追うごとに、忽ち花吹雪となって散り、川の流れに花筏となって去っていく。
先日の新聞に花吹雪(hanahubuki)という音の響きが良いので、どんな景色か見たいと思っていた外国人が、実際に見て成程と納得したという記事が載っていたが、満開の桜の花吹雪の中を歩いては幸せを感じないではおれない。その花吹雪が小川に散って花筏となって川面を覆って静かに流れていく姿も忘れることが出来ない。
ただ、そのパット咲いてパッと散る様が大和魂を象徴するものだとして、大日本帝国陸海軍にフルに利用されたために、多くの犠牲者や殉教者?を生み出した過去の歴史が未だに尾を引いているのが残念である。
私にとっては、花吹雪の中を通り、花筏を眺めるとどうしても「咲いた花なら散るのは覚悟、見事散りましょう国のため」と歌ってって死んでいった若い兵士たちの姿が目に浮かんできてしまうのをどうしようもないのである。