人は誰しもいつも色々なことを考えながら動き回っているものである。しかし、考える内容は人によりその時々により千差万別である。若い時は、次にしなければならない仕事の段取りを考えながら動いていることが多い。始めにこれをやって、次にこれをする。あれも忘れてはならない。その評価も兼ねて、あれは後でも良いかなどなど、やらねばならないことや、その段取りを考えながら動いているものである。
しかし、九十歳も後半になって、一日中家にいることの多い老人ともなれば、しなければならない予定も少なくなる。予定を気にすることはあっても、予定に追い回されることもなくなる。当然、何かをしながら考えることも変わってくる。体が弱り、動くのが大変になってくるので、必然的にどう動くのが効率が良いかよりも、自然と、どう動くのが一番楽か、体にとって負担が少ないかなどを考えるようになる。
たとえば朝起きた時である。朝起きた時には、しなければいけないことが結構いっぱいある。朝起き上がって、服を着替えるだけでも時間がかかるが、次に寝床の中から湯たんぽを取り出し、床頭台の電気やヒーターを消し、布団を整え、トイレに行って用を済ませ、入れ歯を入れ、空になった加湿器に水を入れて次の夜に備え、雨戸を開けて電気を消し、書斎へ行って電気やヒーターをつけ、パソコンの電源を入れて立ち上げる。最後に二階の他の部屋の雨戸も開けるなどと、しなければならないことが多い。
以前だったらどう動くのが一番効率的で早く済ませることが出来るか、少しでも早く用を済ませて階下へ降り、朝飯に行くことしか考えなかったが、体が弱り、足が悪く、転びやすくなった老人は、効率より自然とどう動くのが一番安全で疲れないか、ということを考えて動いていることに気がついて驚かされる。
九十歳を超えた女房と二人暮らしでは、昔のように何でも女房に頼むことは出来ない。三食を食わして貰っているだけでも感謝しなければならない。自分で出来ることは出来るだけやろうと思ってはいるが、なかなか思うように、効率的にことを処理していくことも難しい。
ぼちぼち考えながら、ぼちぼち動いているこの頃である。