先に書いた「九十後半・老いの一日」のように、最早何もしないうちに日が過ぎていくといった感じの日々だが、それが可能なのは女房がいるからである。女房は今年九十歳だが、私の九十歳の時のように元気である。三度の食事から洗濯、買い物など全てで、私を世話してくれている。
生活費の引き出しや、その他の支払いなどでの銀行巡りや、地区の付き合いなど細々とした要件も、何から何まで全てこなしている。その上自分の友人らとの付き合いから美容院や医者通いなども忘れていない。そのおかげで、何も出来ない私が生きてられるようなものである。
おまけに、私の散歩や外出にも一人では危険だからと言って付き添い、薬の服用のチェックまでしてくれる。毎日の体操や坐禅にも付き合ってくれている。こちらで出来ることは少しぐらい手伝おうとするが、自分流にさっさと片付けないと気が済まないのか、慣れないこちらが手を出すのをじれったいと思うのか、あまり喜ばない。
幸せだと思わなければバチが当たる。しかし女房が元気だから出来ることで、もう九十を過ぎていることを考えると、いつまでもこれを続けられるか不安である。いつかは今の生活を続けられなく日が来ることを覚悟しておかねばならない。
それまでにこちらが先に逝けば良いが、必ずしもそういう訳にもいかないかも知れない。出来るだけ長く今の生活が続けられることを願うばかりである。そのためこちらに出来ることは、こちらが元気でいることと、私でも出来る朝夕の雨戸の開け閉め、食器の片付け、ベッドメーキング、暖房などの用意ぐらいのことであろうか。
食事や掃除、洗濯などの家事も少しは手伝おうとも思うのだが、手立てがわからないし、モタモタしていると嫌がられるので、あまり手を出すわけにもいかない。
そんなわけで、朝から晩まで一日中、何から何まで女房の世話になりながら何とか日が過ぎている有様である。今や女房なしには生きていけない。女房に養われてると言っても過言ではない。いつも文句は言っても、心の中では感謝しているのである。