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死はもうすぐ隣

 かっての大戦の時には、数え切れない人たちが命をなくした。敗戦の年になると、戦地へ行かなくても、度重なる国中での空襲で多くの人が死んだ、というより殺された。広い空一面から降ってくる焼夷弾のあの光景は忘れられない。あたりは忽ち火の海となり、かろうじて逃れ、公園の垣根をよじ登って逃げたことを、昨日のことの様にまだはっきり覚えている。船場の真ん中に住んでいた友人も死んだ。その後、工場動員に駆り出されていた旧友も死んだ。また、広島の原爆の焼け後には、まだ燐の燃える匂いが漂っていた。

 また、海軍兵学校で見た光景は、石油がないので島蔭に留め置かれていた利根、大淀をはじめ、多くの軍艦が皆沈められてしまった姿であった。最早、軍艦のない海軍は陸戦の訓練をして、本土決戦に備えるよりなかった。大日本帝国に純粋培養されて育ったような私は、本気で「皇国」のため「天皇陛下万歳」と言って、死ぬ覚悟を決めていたので、もう半年も戦争が続いていたら、ほぼ確実に死んでいたところであった。

 そしてあの敗戦。親も兄弟も家も失い、食べるものもない多くの浮浪児や、特攻で死ぬ覚悟をしていた”死に損ない”の若者たちが街に溢れていた。皇国史観の中で生まれ育ち、それしか知らなかった自分の全てを否定され、急な社会の変化について行けなかった私は虚無のどん底に突き落とされた。占領下でも皆が平然と生きている姿に我慢が出来ず、希望を失い、生きる意味さえなくし、全てが終わりだ、自ら死のうと思ったのであった。当時は同様な仲間も沢山いて、睡眠剤などで次々と死んで行った。「今でなくとも、もう少し様子を見てからでも・・・」という気持ちがかろうじて命を救ってでくれたのであった。

 それから早、八十年近くにもなる。世の中はすっかり変わってしまった。戦争のことさえ知る人が少なくなってしまった。時間はかかったが、私もようやく立ち直り、普通に生きられるようになった。しかし、この時の傷は今でも心の奥深く残っているのか、虚無の世界から完全に抜け出せないでいるような気もする。

 人生は短いものである。いつしか私も96歳になってしまった。父親が94歳まで生きて長生きだったなあと思ったものだったが、私はもうそれを超えてしまった。もう仕事も完全に止めたし、親しい友人も皆死んでしまった。遠くへ出歩くことも出来なくなった。残るのは思い出だけである。やがて死ぬのも必定である。

 この最後の死はどうやって来るのだろうかなと思ったりもする。折角の免疫性血小板減少性紫斑病(ITP)になって、これで死ねるかなとも思ったが、薬が効いて、どうもこれでは死ねそうにない。最近、体力の衰えが顕著なので、この先に死が待っているのだろうが、こんなブログを書いていると、何だかいつまでも生きているような気さえする。

 100歳までの生存率は男5%、女15%だそうだ。 もう死がそこまで来ていることは確かだが、死ぬまでまあまあ日常生活が出来、あまり苦痛もないまま、寝ている間にでも、静かに息を引き取るような死に方が出来ないものだろうかと密かに思ったりしている。果たしてどうなることやら。




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