昨日は3月3日、ひな祭り。二人の孫達もそれぞれの家族で祝ったようだ。
そんな夜、うちのマコ様が孫たちの母=自分の娘に一通のLINEを送った。
信州では1か月遅れとか云うけどね・・理由はしらないけど・・と。
そう、信州全体かは?だけれどわが町やマコ様の育った地域でも、ひな祭り、端午の節句はひと月遅れの4月・6月に祝っていた。ただ、徐々にそうした風習を云う人も少なくなってきたように思う。我々の親世代までかもしれない。
保育園や学校行事も商店街の売り出しもひと月遅れではやっていないので、この風習も早晩なくなっていくのだろうと思う。
しかし何故一か月遅れでお祝いをしていたのだろう。漠然と旧暦と関係している程度の理解しかなかったので、改めて少し自分の頭を整理しておきたいと思った。ただ、この暦の話はかなり複雑というかこれまで何回も撃沈してきたテーマでもある。
奥が深すぎるので、今日はドラパパのボンクラ頭でなんとなく「なるほど」と思える程度の備忘録としたい。
まず、ひな祭りを調べてみると、古くは1000年前から始まったようですが、3月3日に固定されたのは室町時代であり、この頃はまだ人形はなかったようです。ポイントはこの固定された3月3日が今の暦とは違う暦であったということ。当時どんな暦を使っていたのかは?ですし、今我々が旧暦と言っているものとも違っていたと思われます。
日本の暦は、この1500年程は、 元嘉暦 → 儀鳳暦 → 大衍暦 → 宣明暦 → 貞享暦 → 宝暦暦 → 寛政暦 → 天保暦 → グレゴリオ暦(現行の暦)と遷移してきたので、現行暦の直前の暦を旧暦とすると、天保暦ということになる。天保暦はわずか29年間しか行用されなかった(日本で行用された暦としては最も短い。)が、今なお占いや伝統行事などで需要があり、旧暦もしくは陰暦の俗称で用いられている。ただし後述するとおり、現在旧暦として使われている暦は、改暦前の天保暦とわずかに異なる。
以下AI検索結果の引用
ひな祭りの起源
ひな祭りのルーツは、古代中国から伝わった「上巳の節句」という厄払いの行事にあります。これは3月上旬の巳の日に川で身を清め、邪気を払う習慣でした。
日本での発展
平安時代
平安時代には、紙で作った人形で遊ぶ「ひいな遊び」が貴族の女の子たちの間で流行しました。この遊びは『源氏物語』や『枕草子』にも記述が見られます。また、奈良時代から行われていた、人形(ひとがた)に厄を移して川に流す「人形流し」と「ひいな遊び」が合わさり、ひな祭りの原型が形成されました。
室町時代から安土桃山時代
室町時代には、上巳の節句が3月3日に固定されるようになりました。しかし、この頃はまだ厄払いの行事としての意味合いが強く、現在のひな人形を飾る形とは異なっていました。
そして、明治の時に旧暦から新暦への大変革がなされました。
日本で「新暦」と呼ばれる太陽暦(グレゴリオ暦)が採用されたのは、明治5年(1872年)11月9日の太政官布告により、旧暦の明治5年12月3日を明治6年(1873年)1月1日と定めたことによります。これにより、明治5年の12月はわずか2日で終わり、翌日から新暦が施行されました。
この時の旧暦と今の新暦に約1か月の差が生じているのがポイントかもしれません。
今年の場合、旧暦の3月3日は4月19日になるそうです。

以下は私の仮説(という程でもないですが(^^;)です。新暦の3月3日だと寒いし季節感が違う。元は桃の咲く時期なんだそうだ(後記)。じゃ旧暦の3月3日でやるかとすればこれが曲者で、毎年新暦の日が変わってくるようなのです。旧暦の祭りにこだわる人たちもそこは面倒?なので、先ほどの概ね1か月の違いを使って、日にちは3月3日で固定だけど1か月遅れの4月3日をひな祭りにしようとしたのではないでしょうか。端午の節句も同じで6月5日に。そして七夕も8月7日にとしたのではないかと思いました。
正解かはわかりませんが、私なりの備忘録としたいと思います。
昨年の映像ですが信州の北相木村では奈良時代の原型のような祭りが行われています。
上巳(じょうし、じょうみ)とは、五節句の一つ。3月3日。「上巳の節句」(じょうしのせっく、じょうみのせっく)や旧暦の3月3日頃は桃の花が咲く季節であることから「桃の節句」(もものせっく)、雛祭りが行われることから「雛の節句」(ひなのせっく)とも呼ばれる Wikipediaより
細かなことが気になる親父 記