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芭蕉の句碑に書かれた「はせ越」とは?

裏道の墓地の前にある句碑。刻まれた文字はうっすらだが、隣に行政が設置した立て看板がありその文字を探してなぞると読み取れる。松尾芭蕉の句のようだ。

そもそも俳句には縁もない私だけど以前から気になっていたのは「はせ越」という名。
「はせこし」という地域もこの近辺にもあるし読み方もわからなかった。「少し調べ初めてみると芭蕉の俳号のようで、どうやら「はせを」と読むらしい。

松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(月日不明)[注釈 1] - 元禄7年10月12日1694年11月28日[1][2])は、江戸時代前期の俳諧師伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)出身。幼名は金作[3]。通称は甚七郎、甚四郎[3]。名は忠右衛門、のち宗房(むねふさ)[4]俳号としては初め宗房(そうぼう)[2]を称し、次いで桃青(とうせい)、芭蕉(はせを)と改めた。  Wikipediaより

ただこの方の記述によれば、そう簡単でもないようだ。

松尾芭蕉の「はせを」のことなど。 | 林誠司 俳句オデッセイ

抜粋すると・・

はせを

と書いている。

句碑などを見ると、いつもそのように書いている。

が、「芭蕉」は正確(歴史的仮名遣い(旧仮名))には、

ばせう

が正解である。

まさか知らなかったわけではあるまい。

芭蕉は本当は「ばせう」と書くのを敢えて、「はせを」と書いていたようだ。

つまり、芭蕉の読み方が本来の旧仮名は「ばせう」のところを、知ってか知らずかそれとも意識してか「はせお」を俳号としてサインしていたようだ。

ではではなぜ「お」が「越」なのかまたまたわからなくなる。

これを解明してくれたのがこの記事。

芭蕉も使った「くずし字」を読もう 三重・伊賀の芭蕉翁記念館 [三重県]:朝日新聞

くずし字とひらがなを対比させた学芸員手づくりの表、当時の料理本の食材表記を読む練習問題、江戸期の「奥の細道」など約20点を展示。芭蕉真筆とされる掛け軸には「古池や可者川(かはつ)飛込水の音」などと芭蕉句が記され、「者世越(はせを)」の署名がある。

有料記事ということもあり実際の署名の画像は確認できなかったので、他の自筆署名の画像を探してみた。

でも者世越がなぜ「はせお」なのかまだわからない。旧仮名にヒントがあると思い旧仮名の辞典を調べてみることにした。 左から「は」「せ」「お」

「せ」が実際のサインとはちょっと違う感じもするが、サインは「世」にも見える。
ま、素人調べではここまでかなとも感じるが、概ねこんなところだろう。

ここまでくると、先の行政の案内看板も

「はせ越」と「越」だけ漢字にするだけでなく、全部ひらがなで「はせを」とするか「者世越」と全部漢字にした方が良いのでないかと感じた。

「はせ越」の話はここまでとして、なぜ芭蕉の句碑が当地のここにあるのかもまた気になった。私の拙い知識だが当地に芭蕉が訪れたことがあるとは聞いたことがない。

そしてまた、この句を書いた句碑は各地にあるようなのだ。いくつか確認できたものはお寺に設置されている。

三重県内の句碑/句碑詳細:桑名郡木曽岬町外平喜了清寺の松尾芭蕉・白木一巴句碑

俳句についも門外漢だけど、この句も何か色々考えさせるものがある。

この句は芭蕉自身のあつめ句の中にあるようで、あつめ句とは、天和元(1681)年から貞亨4(1687)年秋までの発句34句を自選したもので、春13句、夏9句、秋5句、冬7句あるという。 レファレンス共同データベースより

芭蕉の真意はわからないもののお寺や墓地にあることは「雲雀」を「人」とみたてているのではないかと思うようになった。「囀り足らぬ」をどうとらえるか・・難しい。
ま、自分としては囀り切って(悔いなく)眠りにつきたいものだ。

なお本記事は、忘れた夏休みの宿題シリーズに加えておきたい。

細かなことが気になる親父 記




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