以下の内容はhttps://dlit.hatenadiary.com/entry/2026/03/13/182357より取得しました。


東日本大震災の断片的な記憶(茨城県つくば市)

はじめに

東日本大震災(の発生)から15年ということで、被災時、被災直後の覚えていることを少しだけ書くことにしました。

最初は書くのがためらわれたので少し遅くなりました。次の節目は20年で5年後ということを考えると、確実に今より余裕がなくなっていると思いますし(主に仕事)、ネットに何か書くモチベーションが保てている自分があまり想像できませんので、断片的にでも記録を残しておくことにします。

私は茨城県つくば市で被災しました。震度で言うと6弱です。

具体的な話は下に書いていきますけれど、やはり東北や長野、茨城県の北部に比べると被害は軽かったように思います。その分、あまり語られているのを見ることがありません。ニュースバリューのようなものがなくても、こういう個人的な体験を残せるのはwebの良さの1つですよね。

下書きを書いてみて、だいぶいろいろ忘れてきていることに気付きました。もう15年ですもんね。しかし、忘れられるというのは幸せなことでもあると思います。自然災害だけでなく、一旦「被害者」になってしまうと、周りがステージから降りることを許してくれず、忘れられないということがありますから。さいきんは被害者であることは間違いない人に対してすら「被害者ぶっている」「被害者仕草」のようなひどい言葉が投げかけられることすらありますし。

ここから先は、具体的な体験談を中心に書きます。あまり生々しい描写とかはないと思いますが、読む際はご注意ください。

地震発生時の状況

上にも書いたように、最初の地震発生時は茨城県つくば市の、春日四丁目という地域にある当時住んでいたアパートの自室にいました。

博士号取得後で、筑波大学で非常勤研究員、他大学でいくつか非常勤講師をしていたときです。

アパートの部屋は大学院生のときから借りていたもので、当時の家賃は月27,000円。今ではこの水準のアパートはあまり残っていないのではないでしょうか。当時の基準でもかなり安い方でした。それでも6畳一間で、風呂トイレも共同ではありませんでした。

2009年に結婚していまして、春休みだったので当時四国の大学に勤めていた妻が部屋に一緒にいました。大学教員や研究者だとそれほど珍しくないと思いますけれど、最初から別居婚で、婚姻届をつくば市役所の今はなき桜庁舎に出したとき、住所が異なることを職員の方に驚かれたのを今でも覚えています。

地震発生直後

1998年に筑波大学に入学してからずっとつくばに住み続けていましたので地震にはだいぶ慣れていたのですけれど(沖縄から出てきた当初は震度3くらいでは動揺しない周りの人たちが信じられませんでした)、それでもすぐに部屋を飛び出すくらいの「これはやばい」という直感が働きました。

最初の大きな揺れで、少し高いところに置いてあったガラス細工かなにかの小さな置物が、机上に置いてあった手鏡に直撃して鏡が割れてしまいました。ものすごい焦っていたはずなのに、「よくあんなピンポイントで直撃したな」「あとで部屋に戻ってくるときに破片に気をつけなきゃな」と思ったのを今でも覚えています。

かろうじて携帯電話と財布は持ち出すことができたのじゃなかったかな。ただ、どちらかはこのあと部屋に引き返したときに回収したのだったかもしれません。アパートの駐車場でやはりほかの部屋から出てきた住人たちとしばし呆然としていたところに、2回目の大きな揺れがきました。

妻は四国にいれば被災を免れていたはずでまさに災難でしたけれど、私としては身近に親しい人がいるというのはほんとうに心強いことでした。

アパートの部屋は入口横に設定してあった高さのある棚が倒れたために最初は開けられずだいぶ苦戦しました。ただ、家具が邪魔になってどうしても開かないというような状況にはなっていなくて、かなり無理やりがんばったら押し開けることができて助かりました。

そのあとすぐに、近所のコンビニに飲料水や食料などを買いに行きました。当時はセルフレジとかはまだなかったので店員さんが売ってくれたということですから、すごいですよね。

このとき、沖縄にいる両親に携帯電話で連絡することができました。発生直後だったからなのか、ほんとに単なる幸運だったのか。これはあとから考えるとすごく幸運でした。このあとしばらくは携帯電話での通話はできなくなってしまったのではなかったかと思います。

地震発生から少し経って

つくば市の、少し離れたところに妻の友人(女性)が生後それほど経っていない赤ちゃんと一緒にいるのが心配という話になり、連絡が取れたのでそちらの自宅に向かいました。

家のテレビが壊れて見れないので、カーナビに付いているテレビでニュースを見ようとしたところ、東北の津波の映像が繰り返し流されていて、それをずっとただただ見ていました。

自分たちもどうすれば良いのか、今どういう状況なのかということが分からず途方に暮れていたというところもあったでしょう。でもずっと見続けているとつらいということで、自分たちで見るのをやめて今後どのようにするかを検討し始めたのだったと思います。

その後、私と妻2人ともこの友人宅にしばらく住まわせてもらえることになり、ほんとうにありがたかったです。この方の夫が災害への対応で仕事に出なければならない職業の方で、生後間もない赤ちゃんと母親の2人だけというのは大変という事情もあったように記憶しています。

地震発生直後の生活

私の住んでいたアパートとこの友人宅は、つくば市内でもそれほど離れていないところにあったものの、電気や水道の復旧についての状況はけっこう異なっていました。

これはほかの記事やTwitterで書いたかもしれませんけれど、当時つくば市のある課が試験的に運用していたTwitterアカウントが水の配給などの情報提供をこまめにしてくれていて、大変助かりました。つくば市のwebサイトは、特に地震発生の後はつながらないときが多かったように記憶しています。

このとき、Twitterでの情報共有にはほかにもいろいろ助けられました。印象が強いのは、ガソリンスタンドの状況の共有でしょうか。特にしばらくは、時には何時間も待ってガソリンを入れるという状況があったように思います。

地震発生直後にスーパーに買い物にいったときに、水がぜんぜんなくて、やっとあったかなと思ったら焼酎や日本酒などのアルコール類だったということがありました。これは後日、似たような体験をした人がけっこう多かったようだということを知りました。

しばらくは毎日ニュースなどの情報を追いつつ、日々の生活をどうするか対応に追われてはいたものの、非日常的過ぎておそらくやや興奮状態にあったこともあり、それほど追い込まれた状態にはならなかったと思います。

住んでいた安アパートも、部屋の中はめちゃくちゃになったものの、アパート自体がダメになるということはなく、しばらくしたら戻れましたし。

大学で非常勤研究員で使っていた部屋がダメージとしてはひどかったです。新しく立てられた比較的簡易的な建物だったということもあったでしょうけれど、壁がずれて床と離れたりしてましたからね。しかしあとでいろいろ話としては聞きましたけれど、当時教員だった先生方はほんと大変だっただろうなと思います。

近畿圏の方からの励まし

地震発生直後に、近畿圏に住んでいる何人かの研究関係の方から思いのほか励ましのメールをもらってとても心の支えになったのが印象的でした。

中にはそれまであまり交流が頻繁でなかった方も含まれていたのですけれど、ほとんどのメールには、阪神・淡路大震災のことを思い出して心配になったということが書いてありました。

おわりに

妻は、3月中には四国に戻ることができました。4月から新学期も始まるのでその準備とかありますし、何よりもつくばに留まってまた大きな地震が来たら、という不安がありましたので無事帰れたときはほんとうにほっとしました。

このときにどういう交通手段をとったのかあまり詳しいことは覚えていません。でも、とにかくなるべく早く帰れるようにしたのではなかったかな。

2011年度は、筑波大学での非常勤研究員の職もなくなり、完全に非常勤講師のみで生活した1年でした。言語学会のシンポジウムで発表させてもらえるというような幸運はあったものの、全体的に心細い1年だったような気がします。2012年度からまた筑波大学で専任職を得られるわけなのですが、このときは非常勤生活を3年くらい続けていて公募全敗だったので、あまり希望は見えていませんでした。

書いていたらまた何か思い出すかなと思っていたのですけれど、それほどは思い出せませんでした。でも、それは最初にも書いたように幸運なことなのかもしれません。人と話したらまた何か思い出すこともあるかもしれませんね。




以上の内容はhttps://dlit.hatenadiary.com/entry/2026/03/13/182357より取得しました。
このページはhttp://font.textar.tv/のウェブフォントを使用してます

不具合報告/要望等はこちらへお願いします。
モバイルやる夫Viewer Ver0.14