新商品の試作を「夕飯にするから」といって持ち帰ろうとしていた同僚が「夕飯まで仕事かよ」とからかわれているのを見て、昔のことを思い出した。約三十年前、僕が大学生の頃、母が職場から持ち帰ってきてくれた弁当が我が家の夕飯だった。父が亡くなって生活に余裕はなかったけれども「苦しい」「金がない」「お先が真っ暗」みたいなことを僕が言うと母は怒った。それが現実のど真ん中を撃ちぬく言葉であっても、「声に出したら言霊になって抜け出せなくなる」が母の理屈だった。お金や努力といった目に見えるものしか信じない、オカルトとは一千万光年くらい離れたところにいる人が言霊を持ち出すなんて……それくらい余裕がなかったのだ。
母が職場から持って帰ってくる弁当は、ハンバーグ弁当、唐揚げ弁当、とんかつ弁当といったカロリーオーバー気味の普通の(?)弁当ではなかった。母は葬儀屋で働いていた。そこではお通夜振舞いとして弁当が出されていた。弁当は、足りなくなることがないように余裕をもって多めに発注していたので、かならず何個か余っていた。母は、それを持ち帰っていた。「社割でただ同然で買えた」と言っていたけれども、たぶん、廃棄されるものをただでもらっていた。僕が車で迎えにいったとき、弁当を忘れた母を警備員のおじさんが追いかけてきて「タダでも忘れたらもったいないよ」と言っていたからだ。僕が聞こえないふりをしたのは言うまでもない。
葬祭場の仕事は終わるのが遅い。僕もアルバイトを掛け持ちしていた。そのため、我が家の夕食は遅かった。時間の経過で冷たく、かたくなったお弁当ははっきりいって美味しくなかった。通夜の振舞いなので、和食が中心。焼き魚、煮魚、煮物、豆腐、酢の物がスターティングメンバー。ときどき天ぷらが入っていてテンションがあがっても海老天ぷらではなく野菜天ぷらだと知って肩を落とした。弁当については何も言わずに黙々と食べた。母も何も言わなかった。母がプライドを捨てて持って帰ってきたものに文句を言えるはずなどなかった。廃棄される弁当を食べていることについて文句や愚痴といった言葉にしてしまったらとことん惨めな気持ちになってしまうから。黙々と食べていれば、大学を卒業して社会に出て給料をもらう立場になる。夜寝ているあいだに通過していた子供の頃の台風みたいに、乾いた通夜振る舞いを食べる時期は終わる。そう思っていた。
でも若い僕にとってその数年間は長すぎた。押さえつけていたものが抑えられなくなった。なぜこんなものを食べなければいけないのだろう。何も悪いことをしていないのに。言葉にしたら言霊となって母を傷つけてしまう。だから僕は弁当を見ては露骨に「はあ」とため息をついたり、おかずを残したりした。そういう卑怯なやり方で母を非難した。母は悪くないのに。通夜&通夜&通夜。連夜の通夜振る舞い弁当に嫌気がさしていたし、油断すると父の葬式を僕に思い出させた。限界だったのだ。わざとらしく肩を落とす、露骨にため息をつく、という卑劣なゲリラ戦法に対して母は正攻法で挑んできた。ある夏の夜。いつものように乾いた弁当を食卓に出すと母は突然「さあ、お通夜を始めるよ」と言った。意表をつかれ呆気に取られている僕に母は「毎日お通夜気分を味わえるなんて貴重よ。とことん味わってから抜け出しなさい。わーお!」と言い放ったのだ。母はただ、どん底を味わえとだけ言った。
もし「ごめんね」「もうしわけない」といった謝罪や「明るい未来が待っている」という希望を口にされていたら、どうなっていただろう。惨めな気分はより深いものになって、根拠のない希望に対して「それが何の役に立つの?」と苛立ちを隠せなかったかもしれない。謝罪や希望は救いにも弁当に彩りを与えない。どん底を味わえ、覚悟を決めろと言われて、僕はかえって救われた気がしたのだった。それから僕が社会に出るまでお通夜の振る舞い弁当の夕食は続いた。黙々と食べ続けた。それから三十年くらい経ったけれども、あの通夜振る舞い弁当に思い出補正がかかって「振り返れば素朴で美味しかった」食事に昇華することはない。一生ない。死んでもない。
母も歳を取り八十歳をこえた。記憶はまばらになってしまって、当時の記憶も曖昧のようで、僕が「最低の食事だったよな」と言っても反応が薄い。あるいは、母は忘れたふりをしているのではないかと僕は疑っている。そうすることで当時著しく損なわれたプライドを守っているような気がする。それでいい。僕も追及しない。ときどき、三十年前の静かな夜の食卓の時間を懐かしく思うときがある。そして、あの、廃棄されるはずだった、あまり美味しくなかった弁当も、不味さもそのまま、人生の宝物になっていることに僕は気づく。(所要時間25分)



