百人一首第92番目の歌の作者は二条院讃岐です。
源頼政の娘。
源頼政は、平家政権下で存在感を示し続けた人でしたが、以仁王の挙兵に合流し、戦死しました。
今回は二条院讃岐について紹介します。
二条院讃岐とは
生没年が不詳ですが、二条天皇即位(1158年)の時に内裏女房として仕えました。
その後、1190年、後鳥羽院の中宮宜秋門院任子に再出仕しています。
内裏の和歌会でその才能が高く評価された人でした。
百人一首に選ばれた歌は、沖の海底にある石のイメージと、自分の衣の袖を結びつけたもの。
引き潮の時に、海面よりも上に現れる石であれば乾くこともあります。
しかし、引き潮のときにさえ顔を見せない石であれば、乾く瞬間もありません。
そのくらいに、ずっと涙で濡れ続けているのです。
そういう意味ですね。
このイメージの飛躍は、現代の私たちも多く学ぶべきところがあると思います。
百人一首の諸作品からは、技巧も、心の動きも、むしろ新鮮に感じられるものがたくさんありますね。
時代背景
源平の本格的な衝突前に、いくつかの事件があります。
二条院讃岐の父、源頼政が、それまで仕えていた平氏政権に反旗を翻した「以仁王の挙兵」(1180年5月)はその最初期の事件といえます。
源頼政は平家寄りの立場を政治の場では取っていましたが、以仁王が平家追討の令旨を発すると、それに呼応して挙兵しました。
平家追討にはまだ時期尚早と見たためか、呼応する勢力はまだ少なく、源頼政は敗れ宇治平等院で自害します。
また以仁王自身も戦の過程で討ち死にしてしまいます。
この以仁王の挙兵の後、源頼朝が反平家を唱え、挙兵します(1180年8月)。
が、この時はまだ平家勢が強力で、一旦敗走します。
源氏勢がさらに挙兵し、富士川の戦いで平維盛勢を敗走させるのはその2ヶ月後(1180年10月)
この後の冬には平清盛が亡くなります。
源平の勢力のバランスが大きく変わった時期でもありました。
百人一首の歌
歌:わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし
歌の意味:私の衣の袖は、まるで引き潮の時にさえ現れることのない沖の石のようなもの、人は知らないでしょう、それが乾くことのないことなど。
またお立ち寄りください。
どうぞご贔屓に。

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