以下の内容はhttps://dantandho.hatenadiary.com/entry/2024/05/28/050000より取得しました。


「わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の」 二条院讃岐 源頼政の娘 源平衝突前夜の歌人

百人一首第92番目の歌の作者は二条院讃岐にじょういんのさぬきです。

源頼政の娘。

源頼政は、平家政権下で存在感を示し続けた人でしたが、以仁王の挙兵に合流し、戦死しました。

 

今回は二条院讃岐について紹介します。

 

二条院讃岐とは

生没年が不詳ですが、二条天皇即位(1158年)の時に内裏女房として仕えました。

二条天皇は1165年に崩御

その後、1190年、後鳥羽院中宮宜秋門院任子に再出仕しています。

内裏の和歌会でその才能が高く評価された人でした。

 

百人一首に選ばれた歌は、沖の海底にある石のイメージと、自分の衣の袖を結びつけたもの。

引き潮の時に、海面よりも上に現れる石であれば乾くこともあります。

しかし、引き潮のときにさえ顔を見せない石であれば、乾く瞬間もありません。

そのくらいに、ずっと涙で濡れ続けているのです。

そういう意味ですね。

このイメージの飛躍は、現代の私たちも多く学ぶべきところがあると思います。

百人一首の諸作品からは、技巧も、心の動きも、むしろ新鮮に感じられるものがたくさんありますね。

 

時代背景

源平の本格的な衝突前に、いくつかの事件があります。

二条院讃岐の父、源頼政が、それまで仕えていた平氏政権に反旗を翻した「以仁王の挙兵」(1180年5月)はその最初期の事件といえます。

源頼政は平家寄りの立場を政治の場では取っていましたが、以仁王が平家追討の令旨を発すると、それに呼応して挙兵しました。

平家追討にはまだ時期尚早と見たためか、呼応する勢力はまだ少なく、源頼政は敗れ宇治平等院で自害します。

また以仁王自身も戦の過程で討ち死にしてしまいます。

 

この以仁王の挙兵の後、源頼朝が反平家を唱え、挙兵します(1180年8月)。

が、この時はまだ平家勢が強力で、一旦敗走します。

源氏勢がさらに挙兵し、富士川の戦い平維盛勢を敗走させるのはその2ヶ月後(1180年10月)

この後の冬には平清盛が亡くなります。

源平の勢力のバランスが大きく変わった時期でもありました。

 

www.archives.go.jp

 

百人一首の歌

歌:わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし

歌の意味:私の衣の袖は、まるで引き潮の時にさえ現れることのない沖の石のようなもの、人は知らないでしょう、それが乾くことのないことなど。

 

 

「わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の」 二条院讃岐

源頼政の娘 源平衝突前夜の歌人

 

またお立ち寄りください。

どうぞご贔屓に。

 

 

f:id:dantandho:20210924172547j:plain

dantandho
にほんブログ村 本ブログ 古典文学へ
  にほんブログ村ランキングに参加しています

 

PVアクセスランキング にほんブログ村



以上の内容はhttps://dantandho.hatenadiary.com/entry/2024/05/28/050000より取得しました。
このページはhttp://font.textar.tv/のウェブフォントを使用してます

不具合報告/要望等はこちらへお願いします。
モバイルやる夫Viewer Ver0.14