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国立劇場令和6年初春歌舞伎公演 彦山権現誓助剣 初芝居 その1

4709号

1月5日(日)

さて、正月五日。
今年も例年通り、初芝居、歌舞伎を観に行く。

昨年は国立劇場菊五郎劇団を観たが、
今年も、国立で同じ菊五郎劇団、その初日。
(と、いっても昨年同様、現在、半蔵門国立劇場
建て替え中で初台の新国立劇場での上演である。)

芝居は「彦山権現誓助剣(ひこさんごんげんちかいのすけだち)」。

歌舞伎座は演目は昼も夜も、新作が入り、なんだかもう一つ。
役者の顔ぶれも正月にしては心もとなくみえる。

と、いうことで国立。
国立なので頭から原作に近い形で頭から結末まで上演する
通し狂言。やはり、芝居は通しで観なければ本当のところは
わからない。

「彦山権現誓助剣」という演目は観たことはないが、
聞いたたことがあった。

なにかというと、落語「寝床」に名前だけだが、出てくる。

「彦山権現誓助剣」という話は、人形浄瑠璃
原作のいわゆる義太夫狂言と呼ばれる。(人形浄瑠璃
上演する際に三味線に合わせて筋や会話を語るのが
義太夫節と呼ばれるもの。)

「寝床」は江戸古典落語だが、この噺に限って
八代目文楽師が最も演者としては有名であろうが、
圓生師のものに出てくる。圓生師は子供の頃に義太夫語りを
していたこともあり、義太夫にも造詣が深かったと
いってよいだろう。

「寝床」自体は、ドラえもんジャイアンリサイタルの下敷き
のような話。店の旦那が義太夫に凝って店の者や店子達に
無理矢理下手な義太夫を聞かせるというもの。(明治期、
義太夫は聞くのも演るのも大流行していた。)
どんな演目をやるのかと聞かれた旦那が、演目を延々と
並べ立てるくだりで、これが出てくる。まあ、それで、
これが義太夫の演目として有名なものであったと知り、
頭に残っていたのである。
そんなことで、観ておいて損はない、と。

ここで、例によって国立劇場発表の演目・主な出演者を
掲げておく。

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未来へつなぐ国立劇場プロジェクト

梅野下風・近松保蔵=作
国立劇場文芸研究会=補綴
通し狂言 彦山権現誓助剣 四幕七場
  (ひこさんごんげんちかいのすけだち
   国立劇場美術係=美術

発 端 豊前国彦山権現山中の場
序 幕 周防国太守郡家城外の場
 長門国吉岡一味斎屋敷の場
二幕目 山城国小栗栖瓢箪棚の場
三幕目 豊前国彦山杉坂墓所の場
  同  毛谷村六助住家の場
大 詰 豊前国小倉真柴大領久吉本陣の場

毛谷村六助
 尾 上 菊之助
京極内匠
 坂 東 彦三郎
一味斎姉娘お園
 中 村 時 蔵
若党友平/立浪家家臣 十時伝五
 中 村 萬太郎
立浪家家臣 向山三平
 市 村 竹 松
立浪家家臣 捨川団八
 市 村   光
真柴方の若武者
 坂 東 亀三郎
真柴方の若武者
 尾 上 丑之助
真柴方の若武者
 尾 上 眞 秀
真柴方の若武者
 中 村 梅 枝
真柴方の若武者
 中 村 種太郎
一味斎孫弥三松
 中 村 秀乃介
一味斎妹娘お菊/立浪家家臣 井村六郎
 上 村 吉太朗
若党佐五平
 市 村 橘太郎
一味斎妻お幸
 上 村 吉 弥
早川一学/杣斧右衛門
 片 岡 亀 蔵
衣川弥三左衛門
 河原崎 権十郎
老女福栄
 市 村 萬次郎
吉岡一味斎/明智光秀の亡霊
 中 村 又五郎
立浪主膳正
 坂 東 楽 善
真柴大領久吉
 尾 上 菊五郎

ほか

主催=独立行政法人日本芸術文化振興会

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「彦山権現誓助剣」は人形浄瑠璃として天明6年
(1786年)大坂で初演。翌年、同じく大坂で歌舞伎に
移されている。

天明6年というのは、江戸時代中期、真ん中のちょい後。
ちょうど田沼意次が失脚し、寛政の改革松平定信
老中になる間の1年。

今年のNHK大河「べらぼう」=蔦屋重三郎が始まったが
まさにこの時代。

人形浄瑠璃義太夫と歌舞伎芝居の関係でいえば
この頃は、歌舞伎の方が人気を得てきた頃。
また、江戸初期から文化的には京大坂、上方(かみがた)
の方が進んでいたが、田沼時代あたりを境に、江戸が力を
得始めた。
この後、化政文化といわれる江戸の町人文化が
花を咲かせるわけだが、その10年、15年ほど前。

人形浄瑠璃原作の歌舞伎は忠臣蔵だったりたくさんあるが
基本は、上方で作られたもの。
書いたようにこのお話も大坂で書かれ、西日本が舞台。

彦山は、現代では読みは同じヒコサンだが英彦山と書く。
大分県と福岡県の県境の山地にある標高1,199mほどの山。
私はまったくこのあたり行ったこともなく不案内である。
位置的には筑豊、炭鉱で栄えた田川市のさらに南の山の中。
むしろ、大分の山の中の盆地、日田市も近い。

歴史的には鎌倉、室町期からの山伏が修行をする山岳信仰
いわゆる修験道の山として著名で、戦国期初め頃であろうか、
最盛期には数千名の山伏、僧兵を抱える勢力を持っていた
ともいう。そしてその修験道の根拠地、英彦山神宮
英彦山権現)が今もある。(ウィキ


つづく


勝川春亭
「彦山権現誓助剣 敵討の段 三枚の内右」
「一味斎妻幸」「轟源右衛門」江戸
年代不詳(文化文政期)

 

 

 

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