積読本の消化記録、その二。
町田康の本を読了したのは、もしかすると初めてかもしれない。
以前何冊か読んだはずだけど、断片しか記憶しておらず、読み終わった感じがしないし、何を読んだのかも、はっきりしない。
一つはキリスト教関連だった気がする。タイトルは忘れたけど、冒頭、群衆がロバにのってエルサレム入りをしようとしているイエスに向かって、「ホサナ‼️」と怒号をあびせている場面だけが記憶に残っている。そのあとどうなったのだろう。購入して読んだのなら家にあるはずだけど、ここ最近の大掃除と模様替え(主に蔵書の移動)では、目に入らなかった。Kindle本だったのだろうか。
ためしに「ホサナ」で検索してみたら、どうやらそれが書名だった。
そして、冒頭のみ収録されているサンブル版がKindleに入っていた。たぶんそれを読んだのだろう。そりゃ読了していないはずだ。買っていないのだから。続きが気になるから、そのうち読もう。(そして電子的積読本がまた増える)
それと、猫について書かれた随筆集のようなものも、読んだ記憶がある。
たぶんこれだろう。
「猫にかまけて」(講談社)。
これは紙の本を買った記憶がはっきりとある。ほぼ読了したような気もするのに、内容の記憶が曖昧で、思い出そうとすると、別の作家が猫との暮らしを書いた本の記憶が猛然と湧き出してくる。猛然と湧くのに、タイトルが出てこない。
たぶん、これだと思うのだけど・・・
笙野頼子「S倉迷妄通信」
記憶にあるのがこの本であるなら、中盤くらいで、庭に埋めた生ゴミに湧いたすさまじい数の蛆虫に熱湯をぶっかけながら呪詛を吐くシーンが出てくるはずだ。読んでから二十年近くもたつはずなのに、眠れない夜などに、ふとその光景が脳内にフラッシュバックしてくる。おかげで町田康の猫の本の内容がまったく出てこない。
町田康の作品にもどると、歴史物で、源義経が男色文化についてジメジメと一人語りしているくだりのある小説を読みかけたと記憶している。
Kindle内を検索したら、購入後、25パーセントまで読みすすめて、そのまま放置している形跡があった。
冒頭を読み返してみた。
かつてハルク・ホーガンという人気レスラーが居たが私など、その名を聞くたびにハルク判官と瞬間的に頭の中で変換してしまう。というと、それはおまえが自分に執着しているからだろう。と言う人があるけど、そんなこたあ、ない。
あ、面白いや。近日中に読み返そう。
ええと、何だったか。
そうだ、町田康の「入門 山頭火」を読了したことについてメモするのだった。
仙台に帰省したとき、駅ビルの書店でたまたま手に取って、冒頭に惚れ込んで購入したのだけど、面白すぎてなかなか読了できずにいたのだ。
面白い箇所があると、メモを取りたいとかブログに何か書きたいなどという余計な欲が湧いて、そこで読むのが止まってしまうから(たいていパワーが足りずに書けないまま、読むのもそこで中断してしまうのだけども)、とりあえず付箋を貼り付けて先に読み進むようにしていたら、読了するころには付箋がごっちゃり貼りついていた。しかも、時間が経つうちに、何を思ってそこに付箋を貼ったのか、自分でもわからなくなっている。その付箋に何かメモでもしておけばよかったと気がついたけど、後の祭りだ。
でも一箇所だけ、付箋を貼った理由を覚えている箇所があった。
どんな職業についても続かず、思い決めたことを何一つ全うできない山頭火について、「どうしても一所にじっとしておることのできぬ人」であると見た著者は、そのことについて、こんなふうに書いている。
私は、明治末から大正にかけてはいざしらず、いまそういう人は多いのではないだろうか、と思うというのはかく言う自分自身がそうだからで、近年、集中力を欠くこと夥しく、一冊の本をじっくり読んだり、二時間の映画を見たり、集中して仕事に取り組むことができなくなった。
で、どうしているかというと、数冊の本を脇に置いて、三十分読んではまた別の本を読み、十五分読んでまた別の本、なんてことをしている。しかし映画はそういう訳にはいかない。なので二時間の映画を観るためには、相当の覚悟が必要で、数日前から滝に打たれたり、崖から飛び降りたり、御仏に合唱礼拝して念仏するなどの精神修養がどうしても必要になってくるのだけども、映画一本観る集中力もない人間にそんなことは不可能なので、映画は観ず、YouTuveで数分のコントや漫才、拳闘などを見るに留めるのだが、ときに集中力が三分持たないときもある。理由はわからないがエロサイトだと比較的集中するので、集中力を高めるトレーニングとしてエロサイトを眺める。
(中略)
このとき私たちが感じている感覚は、ひとつの事、をしているとき、此の世にあるそれ以外の事、が気になり、今している事、に集中できない、という現象である。なぜそうなるかというと、いましている事以上にもっと重要なことが他にあるのではないか、という観念に常時とらわれているからである。
これを山頭火に当てはめ、ひとつの場所に安住しようとするとき、この世にあるそれ以外の場所が気になり、心落ち着かぬ、という観念にとらわらている。ということはできないだろうか。
そしてなぜこのように心落ち着かぬのか、ということが自分にもわからない。そこで酒を飲んでその落ち着かぬ気持ち、不安を麻痺させる。吾をなくする。
しかし酔いはいずれ覚め、酔態は悔恨を呼び、悔恨は不安を成長させる。
『入門 山頭火』 「僕ニ不治の宿痾あり」
本一冊だけを続けて読むことができない病は、私も抱えているものだ。
一冊読んでいる途中に、何冊もの本に寄り道をする。
外出するときには最低でも三冊は鞄に入れる。重くて持てないようなときは、iPhoneのKindleアプリに、ラノベ以外の未読本をごっそりダウンロードしてから出かける。読める本の選択肢が少ないと思うと不安にかられるからだけど、結局は気になっていたラノベばかり読んでしまって、ラノベ以外は読まずに帰ってくることのほうが多かったりする。
映画館で二時間の映画を観るのに相当な覚悟が必要だというのには、心の底から共感する。
Amazonプライムビデオで映画を観るときは、十五分おきに「息継ぎ」が必要だ。どれほど作品に没入していても、没入するが故に、触発されて湧き上がってくる諸々のことが気になって、意識が異世界にさまよい出てしまうのだ。
そんな私であるのに、この「入門 山頭火」は、他の本に寄り道することなく、一気に読了できた。付箋を貼るという方法で立ち止まり癖を防止したものの、本の外にさまよい出ずに済んだのは、たぶん著者がそういうタイプの読者について熟知していて、さまよい出ないような仕掛けをたくさん施しているからだろうと思う。その仕掛けは、もしかすると、著者自身が書く作業に飽きてさまよい出さないようにするためのものであったかもしれない。
そういえば、町田康氏はパンクロックの人でもあるらしいけれども、楽曲については全く知らない。
聞いてみた。
いいかも。
私も呼ばれた。