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読書メモ 「清少納言を求めて、フィンランドから京都へ」

ずっと読みかけたままになっている本を、少しづつ消化している。

今日は病院の待合室で、ミア・カンキマキの「清少納言を求めて、フィンランドから京都へ」(草思社)を、最初から読み直していた。

 

 

購入したのは、もう四年も前になる。

たまたま書店で手に取って、巻頭に引用されていたヴァージニア・ウルフの言葉と、枕草子の一節に、その場で深く惚れ込んだのが、購入のきっかけだった。

 

みなさんにはあらゆる本を書いてほしい。些細のテーマであれ遠大なテーマであれ、ためらわずに取り組んでほしいと申し上げたいのです。/ みなさんには、何としてもお金を手に入れてほしいとわたしは願っています。そのお金で旅行をしたり、余暇を過ごしたり、世界の未来ないし過去に思いを馳せたり、本を読んで夢想したり、街角をぶらついたり、思索の糸を流れに深く垂らしてみてほしいのです。

 

(ヴァージニア・ウルフ「自分ひとりの部屋」片山亜紀訳)

 

実家で時間を持て余しているときに、人が見ようとするはずがないと思って書き集めた。あれやこれ、故事、ありとあらゆること、ありふれた話なんかで書きつくしてしまおうとした。わたしの目に見え、心に思ったありとあらゆることを書いた。わたしだけがおもしろく感じたり、自然に思いついたりしたことを書きつけてあるだけなのだ。

 

(清少納言)

 

惚れ込んだにもかかわらず、何年も読了できずにいたのは、読もうと思えばいつでも読めるという気持ちがあったのと、先に「枕草子」を読了したいなどという、無謀な計画を思いついてしまったからだ。

 

枕草子」の読解は、遅々として進まないどころか、座礁したまま停止している。

そろそろ再開したい。多少なりとも夏バテから復活したら、また読み始めよう。

平安時代歌人たちも、夏の歌をあまり詠まなかったようだ。きっと暑くて雅な気分どころではなかったのだろう。

 

清少納言についての本を書くために京都に訪れたミア・カンキマキ氏を待っていたのは、凄まじい酷暑に耐えながら、ネズミや巨大な蜘蛛が出没する安宿での暮らしだったという。

 

 京都、二日目。

 

 暑い。すさまじくすべてを呑み込んでしまうように暑い。他に何も考えられないくらい暑い。涼しくなるような考えも色も想像も何の役にも立たないくらい暑い、と、セイや誰か他の人が言っていた。この暑さは命がけの戦いだ。私は暑さと戦っているのに、暑すぎてそのことを考える気にならない。

 

 フィンランドの夏を過ごしながら日本の夏を感傷的に思っていたときは、日本では暑さも何かもっと優美なものだと考えていた。日本人が涼しさの「イリュージョン」を評価している妙な習慣がようやくわかったように思った。涼しげに見えるもの、感じるもの、聞こえるもの、味がするもの。暑さをせめて想像力で抑えることが目的の、何百年と続いてきた昔からの涼文化。

 


(「清少納言を求めて、フィンランドから京都へ」 76ページ)

 

日本人だけど東北生まれの私にとっても、夏の京都は人の住まう場所とは思えないレベルの暑さだった。関西人の亭主も、真夏の京都になんか行くもんじゃないと言っていた。

 

そんな酷暑の京都で、日本語がほとんどできない著者が、じりじりと、じわじわと、清少納言の魂との交流を実現していく。

 

その様子を読むうちに、私も夏バテしている場合じゃないなという気持ちになってくる。

 

この本は、今年のような常軌を逸した酷暑の夏にこそ読むべきだ。だから、いままで読了できずにいたのだ、ということにしておこう。

 

 

 




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