朝日文左衛門(重章)の「鸚鵡籠中記」(上 岩波文庫)の一番目の記事に続いて、二番目の記事にも殺人事件について書かれている。

鍛治屋町殺人事件
貞享元年
九月九日夜、広小路大津町かじや丁の間借屋に居す女房の甥田代五右衛門、(草り取りなり) 伯母聟を突き殺し逐電。(一にいう、伯母に通ずとも)
草履取りの身分である田代五右衛門が、「広小路大津町かじや丁」の賃貸住宅で暮らす伯母聟(伯母の夫)を殺害して逃走。
犯人の田代五右衛門は、伯母と不倫関係にあったという説があるらしいけれど、事実かどうかは分からない。
記事はこれだけだけれども、「逐電(逃げて行方をくらますこと)」とあるから、田代五右衛門は見つかっていないのだろう。
田代五右衛門は、なぜ伯母の夫を殺して逃げたのか。
江戸時代では、既婚女性の不義密通が発覚した場合、女性の夫が不倫相手を「不法侵入者」として殺害してもいいことになっていた。
田代五右衛門が伯母と不倫関係にあり、その現場を伯母の夫に目撃されたのだとしたら、殺されても文句は言えないことになる。
けれども殺されたのは伯母の夫のほうだった。
夜に帰宅して妻と甥の不倫現場に遭遇し、不倫を糺すどころか逆に殺さてしまったのだとしたら、ずいぶん気の毒な話だ。
伯母夫妻は鍛治屋町に住んでいたというのだから、鍛冶職人だったのかもしれないけれども、だいぶ腕っぷしの弱い人だったのだろうか。
それに対して甥の田代五右衛門のほうは、戦闘力も行動力も高い人物だったのだろう。
草履取りだったというから、武家で下働きをする奉公人だったのだろうけれど、「田代」という苗字があるので、中間(ちゅうげん)相当だったのかもしれない。中間は脇差の所持を許される。となると、「突き殺す」ための凶器に事欠くことはない。
夜、伯母宅で、不義密通、あるいは、そう疑われかねない行動の最中に、伯母夫が帰宅。伯母夫に殺される危険を感じた田代五右衛門は、殺られる前に殺れとばかりに伯母夫を殺害し、逃走……
日記の記事からは、そんな風に想像されるけれども、事実がそうだったのかどうかは分からない。
なにしろ、記事に書かれているのは、事件が「九月九日夜」だったことと、伯母の住居が「広小路大津町かじや丁の間借屋」だったこと、甥の田代五右衛門が伯母聟を突き殺して逃走後行方不明ということだけなのだ。
犯行現場が伯母夫婦の家だったのかどうかも不明だし、伯母と甥が不倫関係だったのかどうかも「一にいう」(一説によると、ぐらいの意味だろうか)と付記されているだけで、定かではない。
田代五右衛門と伯母は、ほんとに不倫関係だったんだろうか。
伯母が遅く生まれた子どもだったとすれば、甥と同世代だった可能性もあるけれども、普通に考えれば伯母のほうが年上である可能性が高いし、親子ほど年が離れていたとしても不思議ではない。
もちろん、女性がはるかに年上であるからといって、恋愛関係が成立しないとは言えない。
ただ、引っかかるのは、この事件が起きたのが、夜だったということだ。
伯母の夫の職業は不明だけれども、職人だったとすれば、昼間働いて、夜には自宅に帰ってきていただろう。夫が夜に帰ると分かっていて、わざわざ不倫行為に及ぶとは思えない。
たまたまその日は夫が遅く帰宅するか他所に泊まる予定だったとしても、夫の留守中、夫以外の若い男が夜に出入りしているとなれば、近所の人たちに不審に思われそうなものだから、普通の神経であれば避けるのではなかろうか。
普通の神経では計り知れない、異様な情熱に突き動かされた不倫関係だったのか。
全く別の可能性もある。
田代五右衛門が、何らかの個人的な事情で伯母の夫に殺意を抱き、九月九日の夜、帰宅途中の夫に襲い掛かって殺害。犯行現場を他人に目撃されたために逃走。殺害が不明だったため、伯母との不倫関係を疑われたものの、事実関係が不明のまま事件はお蔵入り。
真実がどうであれ、残された伯母のその後の人生は明るいものではなかっただろう。
犯行現場かどうかは不明だけれども、この事件のゆかりの地名について、少し調べてみた。
広小路・大津通り・鍛冶屋通り
名古屋に行ったことがないので、広小路も大津町も、かじや丁も、どこだか全く分からない。
googleマップを眺めていると、広小路は見つかったけれども、その付近に「大津町」なる地名が見当たらない。
よくよく眺めてみたら、名古屋城の東側から東西に走る「大津通り」という道路があった。ので、そのあたりを探していたら、名濃バイパス付近に、「鍛治屋町通り」という道が見つかった。
「鍛治屋町通り」を歩くことのできるgoogleのストリートビューを貼り付けてみる。
googleマップ上では、鍛治屋町通りの表記よりも、通りにある「喫茶ボンボン」の表記のほうがデカくて目立つので、そのボンボンを起点としてあちこち歩いてみた。
「喫茶ボンボン」から北に向かって数百メートル歩くと「主税町筋(ちからまちすじ)」という通りがある。
主税町は、清洲から名古屋へ都市を移した清洲越しのときに、勘定奉行の野呂瀬主税(のろせちから)が引っ越してきたことから名づけられたのだとか(ウィキペディアより)。
朝日門左衛門の屋敷も、この主税町にあったという(大下武「朝日文左衛門の食卓」より)
朝日門左衛門にとっては、比較的ご近所で起きた未解決殺人事件として、印象深かったのかもしれない。