
この情動の仕事は、生成するもの----人間自身もそれに属している----のなかにとびこんで働く人間を求めている。
存在するもの、見るもあわれな型にはまった、お定まりの、不透明な、存在するもののなかにただ受け身に投げ込まれているだけの、犬のような生活には、この仕事はとても耐えられない。
生の不安と恐怖の策動に抗するこの仕事は、それらの元凶、大部分ははっきりとそれを示すことのできる元凶どもに抵抗する仕事であり、この世界のために役立つものを世界そのもののなかに求めようとする。それはたしかに見つかるのだから。
エルンスト・ブロッホ 「希望の原理」第一巻
p17- p18 まえがき
わかりにくい(泣)。
「この情動」とは、直前に出てきた「希望」を指しているのだと思う。
でも「希望」を、いわゆる感情の動きとしての「情動」の一種と捉えることに、違和感を覚える。
「情動」とは、一般的には、身体的な表出を伴うような、一時的で急激な感情の動きを指す。
たしかに突然に「希望」を意識したようにとき、顔色が変わったり、脈拍が変化したりすることはあるだろう。
たとえば、恐ろしい先生に出された宿題を忘れて絶体絶命というときに、その先生の授業が突然お休みになるというウワサが流れたとき、蒼白だった顔には赤みがさし、期待の高まりとともに脈拍も早くなる……というような体験をした人は、きっと大勢いることだろう。
けれども、「希望」が「怒り」「悲しみ」「喜び」などと同質の情動かというと、そうではないように思う。
「希望」は、実現を望むような具体的な事柄を自ら想定することで、はじめて成立するものだと思う。つまり、成立するまでには、思考の過程が必要なのだが、著者はそのあたりの違いについてあまり意識していないのだろうか。それとも、ここの「情動」という訳語に問題があるのだろうか。分からないので、この件に関しては保留。
ここでは、「生成するもの」と「存在するもの」という表現が、対のようにして使われていることに気づく。
「生成するもの」が、具体的にどういうものであるのか、ここの部分を読んだだけでは。私には分からなかったが、「希望」にかかわる何かであることは間違いない。
二度目に出てくる「存在するもの」の直前に、
「見るもあわれな型にはまった、お定まりの、不透明な、」
という言葉が、形容のように並んでいるが、これらが「存在するもの」にかかっているのか、それとも「犬のような生活」にかかっているのか、判断つきかねるところがある。いずれにせよ、「存在するもののなかにただ受け身に投げ込まれているだけの、犬のような生活」が、主体的に見通しを立てることの難しい、つまり「希望」を持つことのできない「生活」であることは想像がつく。
とすると「生成するもののなかに飛び込んで働く」とは、まさに希望につながる何かを生み出そうとする仕事なのであろうか。
「この世界のために役立つものを世界そのもののなかに求めようとする。それはたしかに見つかるのだから。」
これは「希望」をもとうとする場合の大前提だろうと思う。「たいかに見つかる」と確信することが、「希望」という精神活動のすべてを支えるはずだからである。
(2008年05月17日)