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希望の絵本(4)

 

大切なのは、希望を学ぶことである。希望がやる仕事はあきらめることがない。希望は、挫折にではなく、成功にほれこんでいるのである。希望は、恐怖よりも上位にあって、恐怖のように受け身でもなければ、ましてや虚無に閉じこめられることもない。希望という情動は自分の外に出ていって、人間を、せばめるどころか、広々とひろげていき、内側で人間を目指す方向にむけさせるものが何なのか、外側で人間と同盟してくれるものが何であるのかについて知ろうとして、飽くことがない。

 

エルンスト・ブロッホ 「希望の原理」第一巻   p17 まえがき

          
 
「希望がやる仕事はあきらめることがない。」
「希望は、挫折にではなく、成功にほれこんでいるのである。」


少し分かりにくいのだが、「希望」というものは、その本質において、「あきらめ」や「挫折(を予期すること)」を含まない、ということを言っているのだろうか。


「希望は、恐怖よりも上位にあって、恐怖のように受け身でもなければ、ましてや虚無に閉じこめられることもない。」


「恐怖」よりも「希望」が上位であるとする根拠は、「希望」によって「恐怖」を克服することが可能だからかもしれない。

 


でも現実には、「恐怖」が「希望」を駆逐する場合のほうが、ずっと多いように思う。

それは、「恐怖」が人を受け身にすることと関係があるのかもしれない。主体的に「希望」を持つには、やはりそれなりのエネルギーや、支えとなるものが必要になるだろうから。


たとえば、うつ病の人の脳を覆い尽くすものが、「不安」や「恐怖」に裏打ちされた「あきらめ」「停滞」であることが多いのは、主体的に思考し行動するエネルギー(具体的には神経伝達物質)を失った状態で、必然的に受け身にならざるをえないから、なのかもしれない。

 

けれども、「不安」や「恐怖」という情動を受け止めるにも、脳が「働く」ことが必要なはずである。「受け身」であることにも、生きるエネルギーが必要なのだ。

 

なぜそれらは、低エネルギー状態でも感知され、あるいは発動してしまうのだろう。よく考えると不思議なことである。

 

ほんとうにエネルギーが枯渇寸前であるなら、いかなる感情も動かなくなりそうなものなのに。実際にそれに近い症例もあるのだと思うが、そういう場合であっても、最後まで、不安や苦痛だけは残るらしいのは、一体なぜなのだろう。


残量の少ないエネルギーを、「不安」や「恐怖」を知覚することではなく、主体的に「希望」を抱くことにシフトすることは、不可能なのだろうか。上に引用した文章の前半部分を読みながら、そんなことを考えた。

 

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後半部分には、分かりにくい箇所がある。

 

「(希望は)外側で人間と同盟してくれるものが何であるのかについて知ろうとして、飽くことがない。」


この「人間と同盟してくれるもの」というのは、やはり人外のものなのであろうけれども、それは一体何なのだろう。あとのほうをよめば自ずと分かってくるのかもしれないが、たとえば希望に同調しやすい思想や、さまざまな技術といったものなのかなと想像した。

 

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(2008年05月15日)

 

 




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