
密教の作法の中に、神仏をイメージする場面があります。
顔は忿怒で、手には何々を持ってて、周りに色んな眷属さんがいます。等など…
専門的にいうと、“観想”というものです。

でもそれって結局自分のイメージであって、自分の念や気をコントロールしてるだけじゃないの?
と思われるかもしれません。
僕も最初そう考えていた時期がありましたが、数をこなすにつれて全く別物であるとわかりました。
何度も何度も修法することによって、「あ、仏さんがいらっしゃった!」と分かるようになります。
積極的にイメージするのではなくて、勝手にイメージが湧いてくるようになります。
僕は霊感はありませんが、まず空間が変わりパッと明るくなります。そして体が凄く楽になっていくのが如実にわかります。
自分の“気”ではなく、明らかに“他力のもの“”です。
巷では密教を利用したオリジナルの瞑想法であるとか、気功のように気をコントロールする方法と書いてる本があります。(決して気功をバカにしているわけではありません。)
しかし、神仏を“気”ととらえてしまうと良くないと僕は思います。
神仏は基本的に優しいですが、天部の神様や眷属さんには感情がございます。護法善神という方々です。

「あ、こいつわしのことを気の一種やとおもとるな。全然敬意あらへんやんけ」
となると、障碍を受けたり、見放されるかもしれません。
あと行者であっても「自分の力や!」と思った瞬間に信者さんの業を被るとよく聞きます。
そういうものだと思います。
やはり念や気とは違うものと認識すべきですし、神仏への感謝、敬意、畏怖は決して忘れてはいけません。
そういえば、師匠も同じような内容の記事を昔かかれてましたね。
神仏を気のようなエネルギーで感じる方もいらっしゃるでしょうが、神仏は意思のある存在です。
少なくとも僕はそう思っております。