市場経済化後のカザフスタンで、いかに賄賂が広まっているかをフィールドワークをもとに紹介するというある種の潜入取材的な本。
カザフスタンでは交通事故の揉み消しから、公共住宅への入居、大学生の単位取得、医療アクセス、さらには裁判でも賄賂によって結果が変わってしまうというのを個別のインタビューで描いている。旧ソ連のカザフスタンでは、社会主義経済が崩壊し、急速に市場経済化したのちに賄賂文化が拡大したとされる。体制崩壊の際に、目ばたの効く権力者が利権を確保した一方で、主に公務員の給与が生活に必要な所得に追いついていない、というのが大きな原因の様子、これは、経済が低迷し、公共への支出が抑えられている日本でも他人事ではないように思えて読んだ。
日本でも、議員の口利きの一環で献金は珍しくないようだし、文部科学省の佐野太局長が東京医科大への便宜の見返りに次男を入学させてもらって有罪になったり、また、飯塚幸三さんの交通死傷事故では、上級国民は逮捕されないのでは、と(一部の)大衆が強い疑念を持ったり、全く遠いわけではない。最近は減っているとはいえ、製薬会社が医師に高い弁当や学会への旅費を支援したりとかも近いようにも思える(患者から医師への心付けもかなり減っているはず)。
もともとは、ソ連時代も通常では遅いプロセスを早めてもらうのに、コネが使われていたという素地もあるものの、そのときのお礼はせいぜいお菓子やお酒などで現金は避けられていたのが市場化後はお金になっていったプロセスは気になる。ただ、お金を払えば単に問題を解決できるかというとそうではなく、適切な賄賂先へアクセスできるかというコネクションも必要な場合も多い。これは賄賂を受け取る側も、おとり捜査を警戒しているからとのこと。そしてこれらの、賄賂を求めてしまうし、応じてしまうのを、個別のモラルではなく「システム」と現地の人々も受け取っているというのがおもしろい。
日本では、少なくとも現場レベルの公務員では高い倫理と、相互監視での抑止の両面で賄賂はほぼないとは思うけれど、インフレが進み、公務員の待遇が悪化してくるとどうなるだろう。ただ、汚職をさせないためには一定の待遇が必要とはいえ、公務員の待遇には厳しい世論でどうなるでしょう(旧大蔵省のノーパンしゃぶしゃぶ事件とか、大阪の公務員天国時代とかもあったし・・・)。
また、ソ連の計画経済は、マクロでは失敗していたけれど、内側のソ連市民にとっては、自由こそ少なかったものの、住居の提供など高福祉で公平で秩序があったというのは発見だった。
エピローグから引用する。
こうした社会主義福祉国家を記憶する一般の人びとにとって、市場経済化とは何だったのか。 一部の成功者を除き、彼らの多くが連想するのは、自由競争にもとづく経済成長よりも、福祉の削減と生活の不安定化、贈収賄の蔓延、そしてエリート層による富の独占だろう。政府は住民に十分な社会サービスを提供しなくなり、乏しくなった公的資源をめぐる競争は激化した。インフォーマルなやりとりにも市場原理がいきわたり、あらゆる便宜が商品のように売買されるようになった。富裕はその財力と人脈を駆使してますます豊かになり、貧困層は最低限の生活すら保障されない。公正、平等、安定、そして秩序。これらは社会主義時代を回想する際に、しばしば使われるキーワードである。現在の腐敗が「公正で平等なソ連時代」との比較で語られるのは、腐敗の本質が不公正な格差にあるとみなされているからだ。公式か非公式を問わず、あらゆることに十分なカネを払わなければ人間らしく暮らすことのできない社会は、「腐敗」した社会なのである。
一度不公正が罷りとおるようになると、さらにレントシーキングは進み不公正さは固定されていってしまう。そうならないようにしていくにはどうするべきだろう。 再び、エピローグから引用。
ロシア出身の人類学者アレクセイ・ユルチャクの言を借りれば、ソ連の人びとの大多数は「社会主義の日々の暮らしの現実仕事、友情人づきあい、物質面の後回し、未来志向、思いやり、無私、平等」をソ連の重要で実質的な価値だと受け止めていた」。ただし、そうした「現実」を生きることができたのは、計画経済と完全雇用、そして社会主義的な福祉政策があったからだ。
こういう、価値観は、ある程度自由な社会になると意識されなくなっていくように思える。自由な社会の価値は空気のように、意識されないようになっていくとそのありがたみがわかりにくくなる、ような。社会規範を語ることには、権威主義性と隣り合わせではあるのだけれど、不公正が忍び寄らないようにするためにも道徳の授業以外にも語られるべきなのかも。